「断食安楽死」山折 哲雄
薬物投与超えた視点で
ことしの三月、富山県の射水市民病院で表面化した「人工呼吸器外し」の事件をきっかけに、安楽死の問題がふたたび大きな議論になった。十五年前の「東海大安楽死事件」のときもそうだった。こんどのも、それにつぐ起こるべくして起こった終末期医療のひとこまだ。
このようなことは、医療の現場ではいつでも起こっているのではないか。ただ表沙汰(ざた)になっていないだけではないのかとも思う。それがこの高齢化社会において避けられない運命であるならば、安楽死の課題をそろそろ正面にすえて考えるべきときにわれわれはきていることになる。
私はかねて、安楽死には二つの方法があると思ってきた。モルヒネ安楽死と断食安楽死、である。しかし今日、論議の対象になるのはもっぱら、モルヒネで苦痛を緩和しつつ医師が患者を死なせる、操作医療的な安楽死の是非についてであり、後者の断食安楽死についてはほとんど話題にのぼることがない。
そのことの重要性にくらべれば、「人工呼吸器外し」にかかわる議論などは二義的なものでしかないだろう。なぜなら安楽死とはそもそも、呼吸器外しの是非といった操作的医療の観点からみるものでなく、人が死をどう受け入れるかという人間存在の根元にかかわるテーマであるからだ。
▼医、法、倫理
いまモルヒネ安楽死ということをいったけれども、今日いうところの終末期医療、緩和医療、およびホスピス医療なるもののすべては、医師をはじめとする他者が死に臨んだ患者をどう扱うかという「モルヒネ投与の思想」を土台に組み立てられている。
そこで安楽死を考えた場合畠に問題が生ずるのは、モルヒネをいつ、どのように、どの程度「投与」するか、という技術的判断を迫られるときだ。
そのことをめぐって医師と患者、患者と家族、さらに医師と家族などのあいだで意見の交換や調整をおこなわなければならない。そのうえ、そのやりとりのなかにいやおうなく、医療と法律の関係や医療倫理の規定や慣行が介入してくる。
立場を異にする関係者のあいだでは、意見の違いが生ずる場合もあるだろう。患者の病状や家族の心理における動揺や変化も考慮に入れなければならない。その処置が法に触れるかどうかの判断も迫られる。
さらに困難をきわめるのが、患者自身の意見をどうみきわめるかという問題である。リビングウイルとか自己決定といわれているものだ。
こうしてモルヒネ安楽死を実現するためには、気の遠くなるようなハードルをのりこえていかなければならない。
その間、患者の心の内面で進行する苦しみと悲しみ、そして怒りを誰がどのようにケアするのか、そのための時間的余裕をいったい誰が担保するというのか。
▼「生きる態度」
このように考えてくるとき、もう一つの断食安楽死の場合には、モルヒネ安楽死にともなう数々の障害物がほとんど存在しないことに気づく。医療の現場から発する人間的な葛藤(かっとう)が、その網の目にからめとられるわずらわしさから免れていることがわかる。
いってみればモルヒネ安楽死は、他者(医師)の手によって調合された薬物を体内に注入してもらうことによって、安楽な死を迎えようとする「方法」である。これにたいして断食安楽死の方は、薬物を含めて一切の栄養物の受容を患者本人が全面的に辞退して、安楽な死につこうとする「生きる態度」である。
もっとも、この断食安楽死がつねに安楽な死への接近を約束しているとはかぎらないだろう。場合によっては、思いもかけぬ身体的苦痛に襲われることがあるかもしれない。しかしこの方法で最後を迎えようとするとき、患者は医師や家族たちの利害の外にあって、自己の内心をみつめようとしている。
そしてそれこそがまさに自己決定の証しというものではないか。リビングウイルの具体化といってもいい。ひそかに、潔く、自分の人生をしめくくろうとする意志がそこには立ちあらわれているからである。
もっともこんな提案は、この甘え切った社会には、少々無理な注文と思わないわけではないのだが…。(宗教学者)(静新5月13日朝刊「現論」)
薬物投与超えた視点で
ことしの三月、富山県の射水市民病院で表面化した「人工呼吸器外し」の事件をきっかけに、安楽死の問題がふたたび大きな議論になった。十五年前の「東海大安楽死事件」のときもそうだった。こんどのも、それにつぐ起こるべくして起こった終末期医療のひとこまだ。
このようなことは、医療の現場ではいつでも起こっているのではないか。ただ表沙汰(ざた)になっていないだけではないのかとも思う。それがこの高齢化社会において避けられない運命であるならば、安楽死の課題をそろそろ正面にすえて考えるべきときにわれわれはきていることになる。
私はかねて、安楽死には二つの方法があると思ってきた。モルヒネ安楽死と断食安楽死、である。しかし今日、論議の対象になるのはもっぱら、モルヒネで苦痛を緩和しつつ医師が患者を死なせる、操作医療的な安楽死の是非についてであり、後者の断食安楽死についてはほとんど話題にのぼることがない。
そのことの重要性にくらべれば、「人工呼吸器外し」にかかわる議論などは二義的なものでしかないだろう。なぜなら安楽死とはそもそも、呼吸器外しの是非といった操作的医療の観点からみるものでなく、人が死をどう受け入れるかという人間存在の根元にかかわるテーマであるからだ。
▼医、法、倫理
いまモルヒネ安楽死ということをいったけれども、今日いうところの終末期医療、緩和医療、およびホスピス医療なるもののすべては、医師をはじめとする他者が死に臨んだ患者をどう扱うかという「モルヒネ投与の思想」を土台に組み立てられている。
そこで安楽死を考えた場合畠に問題が生ずるのは、モルヒネをいつ、どのように、どの程度「投与」するか、という技術的判断を迫られるときだ。
そのことをめぐって医師と患者、患者と家族、さらに医師と家族などのあいだで意見の交換や調整をおこなわなければならない。そのうえ、そのやりとりのなかにいやおうなく、医療と法律の関係や医療倫理の規定や慣行が介入してくる。
立場を異にする関係者のあいだでは、意見の違いが生ずる場合もあるだろう。患者の病状や家族の心理における動揺や変化も考慮に入れなければならない。その処置が法に触れるかどうかの判断も迫られる。
さらに困難をきわめるのが、患者自身の意見をどうみきわめるかという問題である。リビングウイルとか自己決定といわれているものだ。
こうしてモルヒネ安楽死を実現するためには、気の遠くなるようなハードルをのりこえていかなければならない。
その間、患者の心の内面で進行する苦しみと悲しみ、そして怒りを誰がどのようにケアするのか、そのための時間的余裕をいったい誰が担保するというのか。
▼「生きる態度」
このように考えてくるとき、もう一つの断食安楽死の場合には、モルヒネ安楽死にともなう数々の障害物がほとんど存在しないことに気づく。医療の現場から発する人間的な葛藤(かっとう)が、その網の目にからめとられるわずらわしさから免れていることがわかる。
いってみればモルヒネ安楽死は、他者(医師)の手によって調合された薬物を体内に注入してもらうことによって、安楽な死を迎えようとする「方法」である。これにたいして断食安楽死の方は、薬物を含めて一切の栄養物の受容を患者本人が全面的に辞退して、安楽な死につこうとする「生きる態度」である。
もっとも、この断食安楽死がつねに安楽な死への接近を約束しているとはかぎらないだろう。場合によっては、思いもかけぬ身体的苦痛に襲われることがあるかもしれない。しかしこの方法で最後を迎えようとするとき、患者は医師や家族たちの利害の外にあって、自己の内心をみつめようとしている。
そしてそれこそがまさに自己決定の証しというものではないか。リビングウイルの具体化といってもいい。ひそかに、潔く、自分の人生をしめくくろうとする意志がそこには立ちあらわれているからである。
もっともこんな提案は、この甘え切った社会には、少々無理な注文と思わないわけではないのだが…。(宗教学者)(静新5月13日朝刊「現論」)