2007年10月

福原信三と美術と資生堂展

福原信三と美術と資生堂展・企業イメージをデザイン
これまで美術館と企業の関係といえば、優れた企業コレクションを展示したり、企業がメセナの形で展覧会の支援をしたりすることが多かった。企業活動そのものを展覧会に取り上げることはなかったのではないか。
東京の世田谷美術館で十一月四日まで開かれている「福原信三と美術と資生堂展」は、一つの企業を美術という切り口で真正面から取り上げた珍しい展覧会である。資生堂が選ばれたのは、大正から昭和にかけての写真界で実作の上でも、理論上でも重要な役割を担った初代社長福原信三の存在が大きかったろう。
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信三は資生堂の創業者福原有信の三男で、薬学を学ぶため米国に留学。その帰途、欧州に寄って川島理一郎や藤田嗣治ら日本人画家たちと親交を深めた。写真家としての道を決めたのは、パリでのことだったといわれる。
展覧会は、光と影が織り成す一瞬をソフトフォーカスでとらえた信三の代表作「巴里とセイヌ」などの写真作品をはじめ、交友のあった川島らの作品を展示。
交友関係から資生堂ギャラリーの活動が始まる様子を追っていく。驚かされるのは山本丘人、須田国太郎、駒井哲郎らそうそうたる美術家が、同ギャラリーで初個展を開いていることである。
また欧米で広告宣伝の重要性を知った経営者としての信三は資生堂に意匠部を設け、アールヌーボーを基調に唐草模様やアールデコのデザインを取り入れたポスターや新聞広告、パッケージなどを次々と生み出していく。ポスターにしばしば登場する断髪、洋装の女性像は当時の先端ファッションだった。こうして「リッチでスマートでモダン」な企業イメージが定着していくのである。
そのデザインポリシーは一九四八年に信三が亡くなった後も一代で終わることなく、山名文夫らのデザイナーによって継承されていく。
それにしてもなぜ企業なのか。美術評論家で世田谷美術館の酒井忠康館長(本紙読書欄に「美術本の一隅」を連載中)によれば、公的施設の管理を民間でもできるようにした指定管理者制度が導入されて以来、美術館の企業化が問題になっているのと無関係ではない。
美術館の企業化に対して、逆に企業の文化度とは何かを問いかけたのがこの展覧会だ。企業を通して生活の中の美とは何かを考えさせるこの展覧会はそうした時代が生んだ美術館の一つの冒険かもしれない。

文化功労賞・鈴木章夫氏

文化勲章・功労者「道究め、さらに飛躍へ」(静新平成19年10月27日(土)朝刊)
長年、芸術や学問一筋に打ち込んできた人たちに笑顔が広がった。「栄誉です」「命果てるまで演じたい」。文化勲章と文化功労者に決まった芸術家や学者らは喜びを語り、さらなる飛躍を誓った。
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東京医科歯科大学長の鈴木章夫氏・「心臓人工弁」生みの親
「心臓外科の創生期に巡り合い、新しい医療技術を世界に発信できた。これからは世界的な仕事が発信できる環境を日本に整えていきたい」。文化功労者に決まった東京医科歯科大学長の鈴木章夫氏(七七)=長泉町出身、沼津東高卒(沼中43回卒)=は思いを語った。
未知の領域だった心臓外科の最先端医療を学ぶために米国留学したのは一九五七年。クリーブランド市セントヴィンセントチャリティー病院で、生涯の師となるケイ医師に出会う。「治せなかった病気を治せるようにすることは素晴らしい仕事」。師の言葉を今も胸に抱く。重症弁膜症で苦しむ患者が多かった米国で心臓人主弁を手作りし、六〇年五月四日に世界初の大動脈弁置換手術に成功。十七年間の米国での病院勤務を経て帰国。冠動脈バイパス術など世界標準となる術式を開発した。このころの様子は手塚治虫の「ブラック・ジャック」に実名で登場する。
九五年からは学長として母校の後進を指導する。「広い視野を身に付けなさい。医学は今日正しくても明日はそうでないことがある。何事もうのみにせず、まず疑問を念頭に置きなさい」。

再開発ビル1Fテナント情報

沼人さんの情報です。
沼津市の再開発ビルの1階(1F)にタリーズカフェが入ります。また、同じく1階(1F)にVIPルームを完備した、高級ヘアーサロンが入ります。東京のバーミャンなどを手掛ける内装デザイン事務所が担当しているそうです。東京のサロンをそのまま持って来た高級感ですが料金はリーズナブルだそうです、沼津にいて東京を感じられる期待大ですね。
| 沼人 | 2007/10/25 10:54 AM |
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川島泰彦氏

訪問団が帰国報告(富士)(静新平成19年10月23日夕刊)
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ラトビアの恩人の形見として預かったボーイスカウトの最高功労章「シルバーウルフ章」を、約三十年ぶりに返還した日本ボーイスカウト県連盟富士地区(牧野保委員長)の川島泰彦さん=富士市=ら、ロンドン・ラトビア訪問団の帰国報告会がこのほど、同市の吉原商店街市民活動センターで開かれた。シルバーウルフ章をめぐる友情の物語を振り返り、交流の促進を誓った。
同章はボーイスカウトで最も名誉ある勲章とされ、元ラトビア農務副大臣のべリーザーズ・ラジンさんが一九三三年に受けた。ラジンさんは四〇年代のソ連侵攻で、米国に亡命し、七三年に死亡。米国留学中にラジンさんに出会い、同じボーイスカウトとして親交を重ねた川島さんが、弔問の際、遺族から同章を形見として託された。
返還式は八月、ロンドンで開かれた世界ジャンボリーで行われ、富士地区から内藤順敬団長ら十五人が参加。川島さんがラトビアからの派遣隊長に同章を渡し、その後、ラトビアのボーイスカウト博物館に収められた。
報告会にはスカウト関係者約五十人や、返還の仲介役を担ったボーイスカウト振興国会議員連盟会長の斉藤斗志二代議士が出席した。返還式やラトビアでの交流の映像を観賞。歴史にほんろうされ、約六十年ぶりに祖国に戻ったシルバーウルフ章の"旅"や、海を越えたボーイスカウトの交流に思いをはせた。
「ラトビアのボーイスカウトとの交流に今後も協力を」と牧野委員長。同地区はスカウト交換のための基金もラトビアに開設。来夏、ラトビアから三人を招く。

沼津牧水祭

牧水しのび歌や舞・沼津で短歌愛好者(静新平成19年10月24日(水)朝刊)
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沼津市で生涯を閉じた歌人若山牧水をしのぶ第五十四回沼津牧水祭(沼津牧水会主催)が二十一日、牧水の歌碑が立つ同市の千本浜公園で開かれた。
「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」と牧水を代表する歌が刻まれた石碑の前には短歌愛好者ら約五百人が集まり、牧水の孫で沼津市若山牧水記念館館長を務める榎本篁子さんが歌碑に花と酒をささげた。
今年は「幾山河」が作られて百年、牧水が没して八十年、記念館ができて二十年という節目の年。牧水にちなんだ舞踊、合唱、太鼓なども披露され、中学生短歌コンクールの表彰式も行われた。参加者には牧水がこよなく愛した酒も振る舞われた。
中学生短歌コンクール特選の生徒は次の通り。
田村瑞季(第四)田中咲妃(第三)浅賀彩(第一)松原誠也(第五)松井佑太(第四)土屋陽一(第四)中村たかね(片浜)高村春菜(第二)杉本七星(大岡)鈴木峻平(静浦)

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