沼津で初の日本ほろよい学会」(沼朝平成19年9月26日(水)号)

酒にまつわる短歌を解説・地元の魚料理と各地の銘酒に舌鼓

第9回「日本ほろよい学会」が二十一日、上土町の東急ホテルで開かれ、全国の日本酒党や若山牧水ファンら三百六十人が集まった。今回は若山牧水没後八十年、沼津市若山牧水記念館開館二十周年記念事業として「沼津大会」と銘打ち、「酒、そして牧水」をテーマに沼津で初開催。参加者は、同会会長の佐佐木幸綱・早大教授と宮崎県日向市の東郷町若山牧水記念文学館・伊藤一彦館長の対談を聞いた後、地元の魚料理を肴に秋田、宮崎、静岡県の銘酒を堪能した。
牧水の菩提寺、千本山乗運寺住職の林茂樹・沼津牧水会理事長のあいさつで開会。林理事長は「日本ほろよい学会を知らずに出席している人がいるかもしれないが」と切り出し、同学会が日本酒の復権を担うため一九九九年に設立されたことなどを説明。
牧水の孫で沼津市若山牧水記念館館長の榎本篁子さんや佐佐木会長、俳人・黒田杏子さん、牧水の生地・東郷町や、同会を立ち上げた秋田市、第6回開催地の宇都宮市からの出席者らが紹介された後、出席者は沼津の地酒「牧水」を味わいながら対談を聞いた。
牧水は旧制中学時代から四十三歳で他界するまで八千首近くの歌を作った。佐佐木会長は、牧水が二十代半ばに作った『白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしずかに飲むべかりけれ』を挙げ、牧水が酒を歌った三百六十七首のうちの最高傑作だとした。この歌には、秋の澄んだ冷気が背景にあると解説。
牧水が最も酒を飲んだのは一つ年上の人妻との恋に落ちた早大の学生時代で、佐佐木会長は「自虐的に酒を飲んでいたが、失恋して信州を訪れた時に『白玉のー』を作った」とし、これを収めた歌集『別離』の出版を機に牧水は世に知られるようになったという。
牧水は早大時代、福岡県出身の北原白秋と同級生となり親交を重ねた。牧水が飲んだ酒は、ほとんどが日本酒だったが、コニャックやウイスキーを詠んだ歌もあることを紹介した。
伊藤館長は、歌人としての佐佐木会長が作った「酒の歌」の中から二首を挙げ、『ひぐらしを聞きつつ腹に沁ませゆく日本の酒にしくものはなし』『長生きはめでたしとのみいえざれど酒飲むための一生(ひとよ)長かれ』を称えた。
一方、焼酎生産が盛んな九州にあって宮崎県は日本酒生産の南限だと説明。同県南部は、かつて薩摩藩だったことから焼酎を飲むが、牧水の生地、東郷町は北部にあり日本酒が主流だ、と話した。
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佐佐木会長は「日本人が酒を飲むのは幕末頃からで、祭りの時などが多かった。失恋をして酒を飲むという牧水のような飲み方はなかった」と解説。早大時代から金に困っていた牧水は、おじから借りるなどして酒を飲んでいた。
結婚後、金がない時でも、家族に金がないことを感じさせず、長男の旅人さん(故人)は「家が貧乏だとは思わなかった」と述懐しているほど。
牧水は、いくら酒を飲んでも乱れることはなかった。朝二合、昼二合、夜六合飲むのが日常で、客があれば二升、三升と盃が進み、家には一斗樽が置かれていたという。
酒の歌では、大伴旅人の「讃酒歌十三首」が有名で、幕末近くになると良寛、橘曙覧(たちばなのあけみ)が知られるが、牧水ほど多くを残した歌人はいない。
続いて、秋田市の那波酒造が同会のために醸造した「ほろよい」が紹介された後、芸人寄合衆「ようそろ」による牧水太鼓演奏で開宴。出席者は牧水のように、じっくり、静かに日本酒をたしなみ、ほろ酔い気分を満喫した。