『いちまきーある家老の娘の物語ー』

 中野翠

 

「 なかの・みどり1946年生まれ。埼玉県出身。早大政経を卒業後、出版社勤務などを経て文筆業に。某週刊誌誌上で1985年から今も続く名物コラムを連載中。著書多数。」

 

 巻措く能わざる「他人事」

 波瀾万丈の一族史

2015年12月04日04時46分55秒0001 中野翠は私の憧れのもの書きである。一世代上の彼女が書く、切れ味鋭いコラムを読んでは溜飲を下げてきた。今でも、彼女が世相を見る目は私の判断基準の一つになっている。

 その中野翠が自分の先祖について書いたという。自分のルーツになぞ、あまり興味がなさそうな気がしていたので、少し意外であった。

 冒頭を読んで納得した。父親の遺品の整理をしている時に見つかった『大夢(たいむ)中野みわ自叙伝』。曾祖母みわと一族について綴られたこの小冊子を読んだら興味を抱かずにはいられない。自分の足元へと伸びた幕末から現在までの血脈は、どくどくと流れ続けていたのである。

 みわは安政六年九月二十二日に江戸の桜田門で生まれた。中野翠じゃなくても「なんかスゴイ」と思ってしまう。桜田門外の変は、みわが生まれた半年後に起こっている。日本史と一族がいきなり結びついたら、調べ始めずにはいられないだろう。なにせ、興味を持ったら一直線のコラムニストなのだから。

 みやの生家である木村家が下総国関宿(せきやど)藩の藩士で、みわの父、木村正右衛門画則(後の山田大夢)は家老であった。みわは本当のお姫様だったのだ。幕末の騒乱では佐幕派だったため、維新後は流浪の果てに静岡に落ち着き、散り散りになっていた家族を呼び集めたという。

 正右衛門の失意は大きく、一時は自殺をも考えたようだ。だが沼津兵学校附属小学校の教授方手伝および寄宿寮取締という職に就き、士族の身分を捨て、名を「山田大夢」と改めた。

 この沼津兵学校というのが凄かった。旧幕府の知を集積したような特殊な学校で、教授には西周(にしあまね)以下幕閣の優秀な学者や軍人が集められ、軍事教育機関として日本初の西洋式訓練を施す学校が作られたのだ。大夢も関連の学校の校長を歴任し、地元の名士となっていく。

 新撰組や坂本竜馬の活躍は歴史上の物語のようだが、明治維新から現在までは百五十年ほどしか経っていない。わずか三代前のことだ。中野翠の子供の頃の記憶を辿れば、みわにせよ、大夢にせよ、親戚たちの話に出てきていたに違いない。

 タイトルの「いちまき」とは「一巻」と書き、血族の一団のこと。読み進めるうちに、ひとつの確信を得た。中野翠はこの本を書くために選ばれ、知らぬ間に多くのトラップに引っかかっていたのだ。彼女の働きのおかげで「いちまき」はさらに大きくなった。これを企んだのはおそらくみわだ。どこからか高笑いが聞こえる。

 東えりか 書評家

(読書万巻)
参考山田大夢関係HPURL