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昭和黄金時代の沼津商店街思い出散歩

第五回「上本通り商店街」 仙石 規

 一 女子高生のオアシスだった「甘党ホール」

 太平洋戦争の焼け跡から、奇跡の復興を果たした沼津。沼津駅から、旧国道一号線までの間には天の川のようにキラキラ輝く三つの商店街が栄えていました。

 東から「沼津駅前商店街(戦前は停車場通り)」、「仲見世商店街」、そして今回の散歩舞台となる「上本通り商店街」です。

 若い方、他所から来られた方に「かみほんどおり」と言っても、「えっ、何処ですか?」との答えが返って来るばかりのこの頃です。

 昭和五十七年に、町名が「大手町」に編入され、三年前には歩道上のひさしも撤去され、ランドマークであった「ボウルビル」も無くなり、影が薄くなったことが残念ですが、昭和の青春を沼津で過ごした市民にとっては、煌(きら)めく盛り場が並んでいた栄えある通りなのです。

 さあ、昭和十年に建造された東海道線「一つ目ガード」(あまねガードと改名・改築)から散歩を始めましょう。

 ここは、前年に失踪した巡査が塗り込められているという都市伝説(拙著『沼津御成橋未解決事件』をご覧ください)の舞台でもあり、駅の南北を繋ぐ交通要所でした。ガードを南に抜けると、すぐ西に待ち構えていたのが、映画館「沼津東映・東映パラス」(あまねガード建設の際取り壊し)です。夏休み、冬休みになると「東映マンガ祭り」が上映され、頭に漫画の主人公が描かれた紙帽子をかぶった小学生達で賑わったものでした。

 信号を南に渡ると、商店街の始まりです、西側から散歩を進めましょう。

s40kamihontoori 西角にあったのは、沼津じゅうの女子高生が小腹を充たした「甘党ホール」です。鯛焼きに今川焼き、あんこがたっぷり入って芳ばしく焼かれて新聞紙に包まれた、ホッカホカのお土産を楽しみに待っていた家族も多かったことでしょう。

 贅沢になりすぎた「スイーツ」を毎日頂く、この頃の「女子」達には、素朴なお菓子が、どんなにお腹と心を満足させてくれたかは理解出来ないでしょうね。

 この店は、今は「だるまや」という居酒屋さんになって、「辛党ホール」への転身を果たしました。

 隣は大久保金物店(現・大久保商店)、小熊理髪店、山中靴店、巽土地、大谷金物店と小路まで店がずらりと並んでいましたが、今は「ホルモン番長」などの飲食店数軒が営みをする「夜の街」です。

 二 椎茸屋さんの昔話り

 南小路の角の椎茸屋さん「稲村商店」のおじいちゃんは、戦前は御成橋袂に住まわれていて、戦中に伊豆に疎開し、その後、今の店を開いたそうです。

 三年前、市立図書館で「企画展時を駆けた橋」が開催された際、稲村さんは駆けつけて、昭和十二年に現二代目御成橋が建造された際の貴重な記念写真を貸してくださいました。その際伺った話ですが、稲村さんは、御成橋近くの料亭に出入りしていた猫を連れて伊豆で暮らした際に、猫が川から鰻を獲って来てくれたことで飢えを凌いだという、民話のような実体験を教えてくださいました。まさに「猫の恩返し」ですね。

 倉庫を挟んで南には「遠藤新聞店」があり、今は「ラピュター遠藤新聞舗」ビルが威容を誇っています。その先には、大丸パチンコ、大東京火災海上保険、東京家具、三ツ石時計店(健在)、梅原生花店がありました。

 三 スケート教室が開かれたボウルビル

 次の角には昭和四十年代、白鳥スポーツが営業していましたが、今は駐車場です。

 続く区画は、パン屋さんやお菓子屋さんだった時代もありましたが、その南にあった「スマート・ボール(温泉街にあった遊具~知っている人は、五十代以上でしょうね)はなや」の跡地と共に飲食店の入ったビルになっています。

 さあ、今はガラーンとした駐車場が広がる土地には八年前まで、静岡県東部最大の娯楽施設「ボウルビル」が鎮座していました。

 東京五輪が華々しく幕を開けた昭和三十九年十月、映画館「第一劇場」(「日活劇場」というの名の時代もありました)跡に、六階建ての娯楽の殿堂が開業したのです。三つの大きな映画館を収容し、四階には沼津初の屋内アイス・スケートリンクまでありました。暖かな沼津に、スケート場はローラー以外に無く、須走などにまで滑りに行かなければなりませんでした。

 ああ、未だに胸がときめきます、小学校でスケート教室に連れて行ってもらった時の、あのわくわく感!このビルで、スケートを初めて滑れるようになった沼津っ子も大勢残っているでしよう。

 ボウルビルの目玉は名前の通り、ボウリング場でした。自動販売機で冷たいコカ・コーラの瓶を買って喉を冷やし、レーンに球を転がした青春、「律子さん」ブームも、ついこの前だったような気がしてしまいます。

 ジューク・ボックスからビートルズやサイモン&ガーファンクルの曲が流れる中、補導員を警戒しながらゲームに興じた不良?学生時代でしたね。映画のパンフレットやポスターを販売する「シネ・コーナー」が開いていた時期もありまし}た。

スケート・リンクも、いつの間にか無くなり、八年前の五月に幕を下ろしてしまった夢のボウルビル、映画館と沼津駅南の衰退を目の当りに感じました。ランドマークが無くなると、空が開けてしまい、商店街が一気に寂しさを増してしまいますね。

通り西側の区域は、昭和三十三年まで「赤線・青線」が存在した場所で、まだ「子どもは立ち入ってはいけません」との空気が残っていました。
2016年01月01日08時12分39秒0001ks 

四 分断された上本通り

続く角には「岡田洋菓子店」が佇み、名物だった苺ショート・ケーキのヴァニラの香りが懐かしいこの頃です(今は商店街の駐車場)

続いて、工具などを扱っていた株式会社「寺田商会」の大きなビルが建っていましたが、時の波間に消え去りました(今は、損保ジャパンが建っています)

南には、野村洋品店、「食い倒れ」という迫力ある名の中華料理店、たちばな屋履物店、山種証券、田川歯科医院、と並んでいましたが、今は空きビルやマンション、などになり、服部呉服店跡は服部会計事務所になっています。

角にあった、ちとせや化粧品店(現おかだ)を過ぎると、旧国道一号線の信号が待っています。上本通り商店街は、ここでお終いだと思っている人もいますが、実は道の南に渡り、町方町(アーケード商店街)にバトンタッチするまで続いているのです。アーケード商店街(本通り)と上本通りは、大正二年の雛祭りに発生した「第一次沼津大火」の後に南北に新設「された通りなのです。そのずっと後に旧国一が東西に開通した際、分断された状態になったのです。

五 賑わっていた家具屋さん

国一南の角は、矢崎酒店でしたが、今は韓国豚焼きの店になっています。南に、小林ネクタイ店、宇佐美雛人形店と続きました。この人形店は「京都のお雛様」をアピールし、正月を過ぎると、女の子が生まれた家族が大勢、品定めに訪れていました。

ワカマツ毛糸店、新興証券などがそのブロックにあった店ですが、この場所に残っている店は皆無です。

 最後の南西ブロックには、銅徳金物店(現・沼津ロック・センターと大手町美顔教室)、健在の山田印房、タケコウ洋品店(今はマンション・コンドミニアム)、市民に人気があったカトー家具店(昭和四十二年に撮

影された、この店の前から北を望む商店街の写真で当時を偲んでください)と並んでいました。

 加藤さんは、家具屋をやめた後もギャラリーを開いて街を元気付けていましたが、廃墟のようになったビルの現状を見ると悲しくなるばかりです。上本通り終わりの角地には、かつて白壁本店が開いていました。

 六 沼津音楽愛好家の聖地

 さあ、通りを渡って東側に移りましょう。上本通り南東入り口角は柏木靴・鞄店でしたが、四十年代には「柏木男性専科」との店名になり、今はHIROFUという洋服店などが入るビルです。

 キンヤ金物店、木村釣り具店、現在は新仲見世に店を構える井草呉服店と並び、その北に大きな「岡藤硝子店」があります。本部は清水町に移転しましたが、現在も盛業の岡藤さんは、上土にあった長倉さんと並ぶ沼津屈指のガラス屋さんでした。

 次の角は、S製薬の象の人形が懐かしいウエマツ薬局です。店頭には、昭和を感じさせるものが並んでいますよ。小路を渡ると、音楽を愛する沼津っ子は必ずお世話になって来たはずの丹沢楽器店です。楽譜や楽器が並ぶ店内に入ると、ショパン作曲ノクターンの甘い旋律などが脳裏に蘇ります。初代の店主は「紅嶺」という雅号の写真家としても活躍し、昭和三十年代初期の御成橋でのナイヤガラ花火を写した絵葉害も残されています。

 北隣は泉屋菓子店(店名が壁に残った建物は健在)、鈴木果実店、松岡時計店でしたが、果実店出身の沼東高の先輩がパブや小料理屋さんが入るビルを二軒の跡に建て賑わっているようです。

 続いてセト洋服店(今は、イタリア語で33を意味するトレンタ・トレという名の食べ物屋さん)、数年前に閉店し、建物も昨年撤去されてしまった栗田時計店が旧国一角にありました。

 七 わが「シネマ・パラダイス」

 2016年01月03日10時48分45秒0001s交差点北東角に半世紀前、「青い鳥」という名の小さな書店が開いていました。戦後復興の希望を感じさせる素敵な名前の本屋さんでした。書店が閉まった後、喫茶店ミラノの時代が続いていましたが、数年前には何と焼鳥屋さんになり、これもなくなってしまいました。

 この角地東には、戦前からの沼津商工会議所建物が残っていましたが、駿河(現・スルガ)銀行大手町支店に新築され、駐車場横の袋小路に数軒の小さな店が東西に並んでいます。

 昭和四十年代に、フランス・ベーカリーというお洒落な名の洋菓子店が通りに面して開いていました。店頭のケースには、色とりどりのケーキが並び、うっとり眺めたものです。当時、ケーキは贅沢品で、誕生日などの機会にしか買ってもらえなかったのですが、我が家のお気に入りの店でした。今は、つけ麺屋などが頑張っています。

 次の角地には洋画専門の「沼津文化劇場」があり、昭和三十九年に沼津信用金庫本店が新築された後、その一階で劇場も営業を続けていました。

 洋画フアンだった自分は、中・高生時代に文化劇場に通い詰めましたから、昭和末期に閉館してしまった際は涙が滲みました。沼東高時代、自分は英語部の部長を務めながら「映画研究会」にも入部していたので、支配人に映写室に入ることを許されたり、特別割引の切符を学校で販売させてもらったりしたことが夢のように思われます。まさにわたしの「シネマ・パラダイス」でした。

 八 さらば、青春の本屋さん

 次の角地は、今回掲載させて頂いた青木徳安さんが昭和三十一年に撮った三人娘(二十代だそうです)の写真の地点です。キャラメルの看板が見える店は旭屋菓子店で、その後、喫茶店・食堂になりました。今は、餃子の八屋です。

 北隣はコマドリ洋装店というセンスある婦人服の店でしたが、富士急名店会館に移り、四年前に上本通りに復帰しています。コマドリの跡地は町のカレー屋さんとなり、芳しい香を漂わせています。

 続くドールハウス・キムラという夢溢れる店は、道行く人の眼をショー・ウィンドウに釘付けにしておりますが、かつてはキムラ洋品店でした(南隣にあった山口工務所もドールハウス敷地内)。次の㐂良久食堂は、家族とよく訪れた長い歴史を誇る店で、海老フライなどが名物です。

 その北には、光洋電工が営んでいましたが、平成になってから諸国屋乙庵という、さっぱりしたラーメンと日本酒を出すお洒落な店になり、贔屓(ひいき)にしていましたが、今は、昼は花屋で夜はバーという、ラパン・ルージュという店になっています。

 北隣は不動産屋になっていますが、かつてヤノ書店があった場所です。若き血が逸(はや)る中・高生時代、この書店には散々お世話になりました。大人向きの雑誌や写真集は、常連のマルサン書店では、店員さんが皆顔見知りなので、とても買えませんでした。

 猫のような笑顔をした矢野さんから、ドキドキしながらお目当ての本が入った袋を受け取ったものです。数年前に店が無くなってしまったことに気付き、喪失感を受けた自分です。

 次の、ますみ屋文具店も懐かしい場所です。昭和四十年代までは「紙店」との表示があり、習字の硯や半紙を買い求めました。いまや墨を磨()るという行為も、墨汁の発達で消えつつあるそうです。

 隣のタニビシ洋装店は昭和時代、沼津女性のファッションをリードしてきた名店ですね。母がワンピースを買う際にお伴で訪れ、店内の綺麗な女性客をボーッと見ていた小学生時代、上本通りは輝いていました。角地は、一富士洋品店でしたが、ミハト・ビルが建ち、牛兵衛という居酒屋が入っています。

 九 父の親友だった自転車屋さん

 続くブロック角は、関野瀬戸物店(ガラス店と名乗っていた時もあります)がありましたが、今は駐車場と新生ブティック・コマドリになっています。北隣にあった市川自転車店も忘れられない店でした。自転車が好きだった父がよく修理に訪れ、赤ら顔の店主と話し込んでいました。父の患者さんであり、友達でもあった市川さんが、平成になって急逝された際、父は涙を流していました。今は、夜の店が入る雑居ビルになっています。

 小さな加藤スポーツ店(やはり今は夜の店)を挟んだ北の柳屋化粧品店は老舗で、ショー・ウィンドウに貼られた資生堂や鐘紡の美人ポスターが青春の胸をキューンとさせてくれました。店主の長谷川さんは上本通り商店街の顔で、沼津振興への活動を地道にされている紳士です。

 北にあった亀屋洋品店は、レディーズ・ミワと改名しましたが、空き店舗になっています。続いてあった杉山履物店は.アダルト・ビデオ店になっていました。次の吉村陶器店は、「301」という餃子屋に変わりました。角地には早川衣料品店、高橋衣料品店と二軒が並び、早川さんは米軍払いおろしのジーパンが名物でしたが、雑居ビルになり、高橋さんも最近店を閉じられました。

 十 あの温もりをもう一度!

 上本通り最後の北東ブロックまで辿り着きました。このブロックは、昔から飲食店が多いことが特徴でした。南角には、松井ゴム工業所や酒場バッカス、中華そば屋が並んでいましたが、現在はNPO法人も入る「上本通り第一ビル」が建っています。

 隣には、さくらい文具店が、「昭和の文具屋さん」といった雰囲気のまま地道に営業を続けています。空き地を挟んで二軒のビルがあり、北は遠藤薬局でしたが廃業したままです。その次には、沼津グリルという大衆的なお値段のレストランがあり、駅前の沼津軒と共に賑わっていました。今は、きしんという名の居酒屋さんになっています。角地には中華食堂八福が四十年代中期から暖簾を出し、ラーメン・鮫子など、変わらぬ味が人気を誇っています。

 さて、上本通りの思い出散歩も終えました。「ボウルビルの街」という印象が強かったのですが、ビルが無くなった後も、地道な老舗商店や他所にはないようなユニークな店、食べ物屋さん等が沢山残る、立派な商店街であることを再発見しました。

 どこでも同じ店が入り、店員はマニュアル通りの対応しかできないショッピング・センターでは体験できない「お店屋さん」体験を、皆さまも味わってください。

 あの鯛焼きの入った新聞紙の温もりのようなホッとする感覚、これが昭和商店街の魅力だったのではないでしょうか?

 (今回も絵地図のイラストと文字は「石山コンビ」に描いていただきました)

 次回は「沼津御成橋商店街~市場町・通横町・大門町」を予定しています。

 仙石規(せんごく・ただし=郷土史家・医師、市場町)

【沼朝平成2811()号】