歴史

次代を担う人びと・沼津の文化を語る会発行

故望月良夫氏主宰の「沼津の文化を語る会」発行の「次代を担う人」
昭和63年~平成元年に連載ものです。
取り上げられた時代は29年前のことです。


2017年02月24日15時53分54秒0001

沼津商業界戦後昭和史PPT動画

160117flライオンppt2 from 河谷杯歩 on Vimeo.

平成21年9月辻畑古墳発掘説明会時の新聞記事等

“国内最古級”辻畑古墳説明会に1000人超 沼津

09/14 07:59 (静新webnews)

 古墳時代初頭にあたる250年ごろに作られたとみられる高坏(たかつき)が出土したことで、国内最古級の前方後方墳の可能性が浮上した沼津市東熊堂の「辻畑古墳」で13日、市民らを対象にした現地説明会が開かれた。午前、午後の2回で1000人以上が詰め掛けた。

 市民らは、埋葬施設や高坏が見つかった古墳を囲む「周濠(しゅうごう)」部など4カ所で、市職員の説明を受けた。周濠部では職員が「高坏は、多くの学者の評価を得る必要があるが、もし古墳時代初期に作られたとしたら、貴重な史料。注目していてほしい」と呼び掛けた。出土品の一部を集めた展示会場では、メモを取ったり写真に収めたりした。

 近くに住む楢木留美さん(38)は息子の大介君(7)と訪れ、「近くに古墳があったとは知らなかった。子どもに歴史の大切さを伝える機会になった」と話した。

 市教育委員会は、沼津南一色線の建設用地として、昨年から同古墳の発掘調査を開始。前方後方墳は長さ約60メートルで、これまでに高坏のほか、コンテナ30箱分の土器片や銅鏡などが見つかっている。出土品などの特徴を分析し、2011年までに報告書をまとめる予定。
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 辻畑(つじばたけ)古墳発掘調査見学会資料

 1.調査の経緯

 平成17年度に建設部街路課(現在は道路建設課)から都市計画道路沼津南一色線(昭和36年都市計画決定)の建設用地となる高尾山穂見神社とその移転先の地域に埋蔵文化財があるかどうか教育委員会(文化振興課)に問い合わせがあり、試掘調査の結果発見することができました。教育委員会は、日頃からこうした開発行為と文化財保護の調整に必要な埋蔵文化財の情報を得る目的で試掘や踏査などの分布調査を実施していますが、私有地を勝手に掘ることはできないので、工事をしようとする機会を捉えて開発者のご理解をいただきながら分布調査をしています。熊野神社境内については、19年に試掘調査を実施しました。この結果、()辻畑古墳とされてきた高尾山穂見神社の高台は古墳であることが確認されました。このときは、調査範囲も狭く、一部しか試掘できなかったため、平面形が方形となる「方墳」と考えられました。前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)であることを最終確認したのは、東熊堂自治会館建設に際して実施した平成205月の本発掘調査です。

 2.前方後方墳とは

前方後方墳の名称は、その名が示すとおり前に矩形又は台形を呈した土台があり、後ろにも方形の土台がある古墳につけられた名前です。これに対して、前方後円墳は、前に方形の土台後ろに円形の土台があります。前方部は、ここで祭礼を執り行ったと考えられています。後方部は前方部より一段高く、ここに棺(ひつぎ)を埋葬する埋葬部をもつことが一般的です。年代的には、にその発生は古く、前方後円墳との関係から考えてもそれより古くなるものが多いと考えられています。静岡県で確認されている前方後方墳は、辻畑古墳を含めても5基しかありません。午王堂山3号墳(静岡市清水区)77.6m・浅間古墳(富士市)103m・北岡大塚古墳(磐田市)49.5m・小銚子塚(磐田市)47m・新宝院山2号墳(磐田市)34.3mがあり、その年代は新宝院山2号墳と小銚子塚が4世紀前半、午王堂山と浅間は4世紀後半位と考えられています。丸ヶ谷戸(富士宮市)26.2mは、3世紀後半と考えられていますが、弥生時代以来の前方後方型周溝墓と考えられています。

真上から見た形は、右図のようになります。高尾山穂見神社の社殿が乗っていた高台は、発掘調査によって後方部であることがわかりました。前方後方墳の発生は、主に弥生時代後期末から造られ始める前方後方形墳丘墓との関連が考えられ、古墳時代前期前半に東日本(中部・関東地方)でよく造られています。日本列島には約500基の前方後方墳が存在します。愛知県の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40mもあり、前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられています。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の一辺にこうした突出状の祭壇を設ける墓が流行しましたその例として愛知県の廻間墓があげられ、祖形と考えられています。

 dこの墳形は、西は京都府から東は千葉県までひろがっているそうです。

 3.辻畑古墳の概要

  全長約62m・後方部幅推定35m・前方部最大幅推定24m・墳丘盛土高約4m・くびれ部幅9.6m、埋葬施設1箇所・埋葬構造:木棺直葬・木棺の形状:調査中・出土遺物:銅鏡12面、槍1点、鉄族10点以上、ヤリ鉋1点、その他錆により形状の判らない鉄製品など,出土した土器型式などから3世紀代の古墳である可能性が高まっています。

「本能寺」直前の書状発見

 「本能寺」直前の書状発見

 長宗我部元親、光秀家臣に
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 織田信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の直前、四国の戦国武将・長宗我部元親が光秀の家臣で親戚関係にあった斎藤利三とやりとりした書状が見つかった。林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館(同市)23日、発表した。

 書状で元親は四国侵攻を計画していた信長の命令に従う意向を示しており、同博物館の内池英樹主幹は「本能寺の変直前のやりとりが史料で初めて明らかになった。本能寺の変に影響を与えた可能性がある」と話している。

 同美術館は、光秀にゆかりのある石谷家に関する古文書47点を所蔵。同博物館と共同調査したところ、元親と利三がやりとりした書状があった。

 本能寺の変の約10日前に元親が利三に宛てた書状では、元親が信長との戦闘を回避するため、信長の命令に従う意思を示していた。信長はこの時期、元親の四国領有を容認する当初の方針を翻し、四国に侵攻する計画を進めていた。

(静新平成26年6月24日朝刊)

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