高尾山古墳

県考古学会が市に声明書提出

2017年07月04日10時25分39秒0001

協議会最有力推進案は断念:高尾山古墳保存

2017年05月30日05時33分25秒0001s

高尾山古墳保存と道路整備 11月19日協議会の第2回

高尾山古墳保存と道路整備 1119日協議会の第2

2015年10月29日11時02分55秒0003 「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の第2回が十一月十九日午前十時から正午までプラサヴェルデ四階の四〇七会議室で開かれる。

 前回と同様、大橋洋一委員(学習院大学法科大学院法務研究科長)、久保田尚委員(埼玉大学大学院理工学研究科教授)、矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)の有識者三氏と県幹部二人からなる五委員が出席する。

 前回は、古墳と道路の両立整備案を再検討するよう委員側から市側に要望が出された。今回は、市側が再検討案を提出し、委員による討議が行われると見られる。

 前回と同様、一般傍聴を受け付ける。会場内に約五十席、別室にも約五十席が用意される。別室では中継モニターを視聴する形式になる。

 傍聴席は先着順。午前九時二十分に会場前で受け付けを開始し、五十分に締め切る。

【沼朝平成271029()号】

高尾山古墳シンポジュウム

平成24年7月22日(日)高尾山古墳シンポジュウムが市民文化センターで開催された。
多くの考古学フアンの市民が出席、会場は卑弥呼のの時代に、質疑応答も大変活発であった。
その時のガイドです。  当日配布資料pdf

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その日の沼朝取材記事
 スルガの王、大いに塚を造る

 高尾山古墳でシンポジウム

 市教委は七月二十二日、「高尾山古墳シンポジウムースルガの王大いに塚を造るー」を市民文化センター小ホールで開催。約三百四十人が来場した。

 築造年代や性格付けなど

 専門家が自説を展開

 高尾山古墳は、都市計画道路沼津南一色線の工事に伴う調査により東熊堂の高尾山穂見神社境内で発見された。当初は辻畑古墳と呼ばれていたが、昨年六月に現在の名に改称された。四角形と台形を南北につなげた前方後方墳という形式で、南北の全長は約六二㍍。出土品の形状により、三世紀中ごろか、その少し前に築造されたと見られている。

 シンポジウムでは、沼津市教委の池谷信之さんが司会を務め、池谷さんを含む同古墳発掘調査報告書の執筆者ら六人が、古墳について多角的に論じた。

 

池谷さん 古墳の概要 池谷さんが最初の発表者となり、古墳の概要について話し、はじめに当時の地理的状況を説明した。

 それによると、古墳が建造された当時の沼津西部地域一帯には浮島沼が大きく広がり、現在の田子の浦付近で海とつながっていた。沼の周辺は強風や高潮などにより塩害が発生しやすいため、当時は沼から離れた内陸部に水田が広がっていた。古墳に葬られた人(被葬者)は農業地帯を支配した人であり、古墳は水田地帯を見渡せる場所に位置しているという。

 また池谷さんは、古墳が築造される前の時代に当たる弥生時代後期には、愛鷹山麓に大きな集落があったことを説明。被葬者は、この集落の支配者の流れを引くのではないか、と推論した。

 続いて、池谷さんは古墳の構造について説明。古墳は自然の地表を整地して地表を削り出し、その上に改めて土を盛ってつき固めてあった。この丘のような盛り上がりの頂上に「墓坑」と呼ばれる穴が掘られ、そこに死者や副葬品を納めた木棺が安置された。

 池谷さんによると、この墓坑の位置は、周到な計算に基づいているという。その一例として、台形をしている前方部の斜辺を延長した線や古墳の中軸線などが交差する点は墓坑内にあり、しかも、この地点からは勾玉(まがたま)が発見されている。池谷さんは、勾玉の形は人間の心臓を模したものだという説を紹介し、古墳設計の基点となる場所で勾玉が見つかったことには、何らかの意味があるのではないか、とした。

 このほか池谷さんは、高尾山古墳の築造年代について軽く触れ、大まかに言って西暦二三〇年代説と二五〇年代説があることを紹介。そして、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)が葬られている可能性が高い箸墓古墳(奈良県桜井市)は二五〇年ごろの築造と見られていることを述べ、二三〇年代説と二五〇年代説が持つ意味について解説。

 それによると、二三〇年代説の場合、ヤマト(奈良県)の地に中央政権が成立する以前から、地方で古墳が造られ始めたということであり、これは弥生時代から古墳時代への移り変わりが各地で同時多発的に起こったことになる。

 一方、二五〇年代説の場合、古墳の築造はヤマトから地方へと普及していったことになり、新時代の訪れは、ヤマトを中心としたものであったことになる。

 このため、高尾山古墳の築造年代は、弥生時代から古墳時代への移り変わりがどのように行われたかを考える上で、重要な意味を持つことになるという。

 

渡井英誉さん 出土土器 富士宮市教委の渡井英誉さんは、高尾山古墳から見つかった土器について話した。

 それによると、古墳からは、三世紀から四世紀の百数十年間にわたる年代の土器が発見されているという。この時期は、弥生時代から古墳時代に当たる。

 ま年代だけでなく、土器の産地も多岐にわたり、伊勢湾岸や近江(滋賀県)、北陸、関東などの土器が見つかっているほか、地元産である大廓式土器が見つかっている。

 渡井さんによると、大廓式土器は狩野川沿岸で作られ、西は御前崎、東は相模川流域(神奈川県)、北は甲府盆地(山・梨県)に至る範囲の土地で使われていたと考えられている。そのため、渡井さんは「これは一つの勢力圏があったことを意味し、高尾山古墳の被葬者は、大廓式土器の生産に関わっていたのではないか」との見方を示した。

 渡井さんの発表終了後、司会の池谷さんは「大廓式土器が、なぜこれほど広範囲で見つかっているのか疑問に思っていたが、高尾山古墳の発見により、土器普及の核となるものが見えてきたのではないか」と総括。

「様々な地域からの外来土器が見つかっているということは、地域勢力同士の連携や同盟のようなものがあったと見てもよいか」と質問し、渡井さんは「そう見てもよいのではないか」と答えた。

 

滝沢誠さん 駿河の古墳 筑波大教

(前静岡大教授)の滝沢誠さんは、駿河(静岡県中東部)の初期古墳について話した。

 滝沢さんは、駿河を西スルガ(静岡市、志太地域)と東スルガ(富士市、富士宮市、沼津市、三島市の一部)に分け、双方の古墳について解説。

 それによると、西スルガでは、神明山古墳群や午王堂山古墳群、駿河最大の一一五㍍の柚木山神古墳などが発見されているのに対し、東スルガでは富士宮市で発見された丸ヶ谷戸遺跡の前方後方系周溝墓(古墳以前の大型墓)が特に古いものと見なされる一方、これに続く古墳は存在しないと思われていた。しかし、高尾山古墳の発見が、この見方を変えることになったという。

 滝沢さんは、神明塚古墳(沼津市)が再調査により、築造年代が、当初考えられていたより古いものであると判明したことや、七〇㍍級の前方後円墳と見られる向山十六号墳(三島市)の発見と合わせ、丸ヶ谷戸ー高尾山ー神明塚ー向山と連続して古墳が造られ続けてきたことが明らかになりつつあることを説明した。

 このことから滝沢さんは「スルガの拠点的地域が明確になってきた」とし、古代には静岡市清水区一帯を地盤にする勢力と、沼津市一帯を地盤とする勢力があったことを指摘。それぞれの勢力は後の時代に登場する地方有力者である盧原国造(いおはらのくにみやつこ)や駿河国造などにつながるのではないか、との見方を示しだ。また、かつて駿河国が伊豆半島も含んでいた時代の駿河の中心地は駿河郡駿河郷(沼津市)であったが、高尾山古墳の存在は、このことと無縁ではないとの考えも見せた。

 

赤塚次郎さん  東海系文化との関係 

高尾山古墳築造時期について西暦二三〇年代説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎さんは、高尾山古墳と東海系文化の関係について話した。

 まず、東海系文化の特長について言及し、三遠式銅鐸が発見されている範囲をその文化圏であるとし、濃尾地方一帯には邪馬台国と同時期の集落遺跡が次々に見つかっていることを紹介。続いて「三世紀ではなく二世紀が問題だ」とし、高尾山古墳が築造されたと見られる三世紀より前の時代について解説した。

 それによると、木の年輪調査から、二世紀前半の西暦一〇〇年から一五〇年の間のいずれかの年に大洪水が発生したことが判明するとともに、当時は数年おきに干ばつと洪水が繰り返し続く長周期変動があったことも分かったという。また、断層の調査から東海地方では二世紀前半に大きな地震があったことも明らかになっている。

 こうした状況説明を踏まえて赤塚さんは、「環境の変動が社会を変え、弥生時代までの知識が通用しなくなった。東海系文化は、この変化を乗り越える知識を蓄え、英雄が登場した」と語り、三世紀は二世紀の環境変化を乗り切った東海系文化が北陸や関東へと広まった時代だと述べた。そして、高尾山古墳にも採用されている前方後方墳という形は、この東海系文化と関係が深いと指摘。

 さらに赤塚さんは、沼津一帯の環境変化についても触れ、富士山の噴火が沼津一帯への東海系文化普及のきっかけになったのではないか、と推測した。

 最後に赤塚さんは、いわゆる「魏志倭人伝」の記述を踏まえ、①巨大地震や洪水の発生、②倭国大乱、③東海系文化の普及、④邪馬台国と狗奴国(くなこく)の抗争、という時代の流れを描き、高尾山古墳の築造は③と④の間の出来事ではないか、と見通した。

 発表終了後、東海系文化圏を魏志倭人伝に登場する狗奴国と見なす赤塚さんに対し、司会の池谷さんは会場を代表する形で「高尾山古墳の被葬者と狗奴国の関係についてどう思うか」と質問。

赤塚さんは「狗奴国の仲間の一つだったのではないか」と答えた。

 

寺沢薫さん 前方後方蹟の意味 一方、築造時期を西暦二五〇年代だとする見方に立つ桜井市纏向(まきむく)学研究センターの寺沢薫さんは、ヤマト地方(奈良県)の前方後円墳と前方後方墳の関係について論じた。

 はじめに寺沢さんは高尾山古墳の築造年代について触れ、「副葬品の状況を見ると、三世紀中ごろ以降。しかし、土器はそれより古いものだと思う。このギャップをどう考えるか」と述べ、古い時期の土器が古墳周囲の溝から発見されているとから、これらは古墳に紛れ込んだものではないか、と指摘。また、古墳の形状についても「前方部が長く発達していろ。これは、それほど古いものではないだろう」との見方を示した。

 続いて古墳の規格の話となり、奈良県桜井市で見つかった纒向遺跡の古墳群の形状を説明。

 これらの古墳は、前方後円墳で、後円部が盛り土で高くなっているのに対し、前方部は低くなっている。また、古墳全長と後円部直径、前方部長さの比率などの特徴について話した。

 そして、寺沢さんは、纏向遺跡の前方後円墳のこうした特徴は、多くの前方後方墳にも含まれていると指摘。前方後方墳と前方後円墳は対等に存在するものではなく、前方後方墳は前方後円墳の影響を受けて形が決まる関係にあった、と推論。また、こうした上下関係を江戸時代になぞらえ、前方後円墳の被葬者はヤマト地方の中央集権的な政治勢力にとって譜代大名のような立場であり、前方後方墳の被葬者は外様大名のような立場だったのではないか、とした。

 そして、この上下関係から、高尾山古墳の位置付けについても触れ、高尾山古墳は三世紀中ごろ(西暦二五〇年ごろ)に築造された纏向遺跡の箸墓古墳などと同じか、少し後の時期に築かれたのではないか、との見解を示した。

 そして、高尾山古墳にもヤマト地方の影響があったのではないか、と語り、「高尾山古墳とは、西暦二五〇年ごろにスルガがヤマトの王権とのパイプを模索していたことの証であり、これこそがこの古墳が持つ歴史的価値ではないか」と結論付けた。

 

  総括 最後に明治犬名誉教授の大塚初重さんが総括。

 はじめに、大塚さんは高尾山古墳の第一印象について、「大廓式土器が出てきたと聞いて、かなり古いなと思った」と回想。また他の土器の出土状況からも、三世紀前半の築造ではないか、と思っていることを述べた。そして、古墳とは、ある地域からある地域へと波及していくのではなく、どの地域でも一定の状況まで発展成長すると古墳が登場してくるのではないか、との考えを述べた。

 また、前方後円墳と前方後方墳とは被葬者の地位の違いによるものではなく、各地域の墓や葬儀の制度の違いではないか、とした。

 すべての発表終了後、質疑。

 来場者の一人は赤塚さんに対し、「東海に狗奴国があるとするならば、邪馬台国はどこにあると思うか」と質問。赤塚さんは「河内(大阪府南部)だと思う」と答えた。

 また別の質問者は「高尾山古墳に関連すると思われるような貝塚は見つかっているのか」と質問.これには池谷さんが「見つかっていない。しかし沼津市内の雌鹿塚遺跡からは釣り針が見つかっている」と答えた。

 このシンポジウムは、高尾山古墳について沼津市民が理解を深める機会を提供するために開催された。

 このため、市教委ではシンポジウムの開催を県外に向けては特に告知しなかったことから県外の研究者等から開催について多くの問い合わせがあったという。

(沼朝平成2485日号)

古墳保存問題で各委員が意見

古墳保存問題で各委員が意見

 道路建設と価値観の相克どこで調整

2015年09月05日05時04分20秒0001 プラサヴェルデで三日に開かれた「高尾山古墳保存と都市計画道路(沼津南一色線)整備の両立に関する協議会」の第1回は、これまでの経緯や今後の検討方針を確認する場として位置付けられて議論が行われたほか、これまで古墳の現状保存と道路整備の両立は技術的に不可能としていた市側から、実現可能な代替案を提出する意向が示された。協議会には五人の委員とアドバイザー二人が出席した。出席者の主な発言要旨は次の通り。

 保存の場合、活用も課題に

 市長「関心、一過性にしないで」

 論を始めるに当たって ▽栗原裕康市長=この協議会は文字通り、「両立」のために開かれた。高尾山古墳については全国からも注目され、報道関係者も多く来ているが、古墳への関心が一過性のもので終わらないように願いたい。きょうの議論が沼津のまちづくりにつながるものになることを期待する。

 ▽大橋洋一委員(学習院大法科大学院法務研究科長)=公共事業は一回決まると、なかなか変われない。今回のケースは市長の英断で一時停止になった。現代的な判断とも言える。高尾山古墳は駿河を飛び越えて全国的な価値がある。

 ▽難波喬司委員(県副知事)=価値をどう見るかが問題。論点がどこにあるか見極める必要がある。沼津駅鉄道高架事業では投資効果が判断材料となった。しかし、今回は古墳の歴史的価値と道路の経済的価値の対立だ。どこで価値判断をしていくか、どちらの価値が高いのか。それぞれの人が価値を主張するが、それはその人にとっての価値に過ぎず、正しいとは限らない。最後は事業者が価値判断する。その判断の選択肢を狭めるのが協議会の役割ではないか。

 ▽矢野和之委員(文化財保存計画協会代表取締役、日本イコモス国内委員会事務局長)=古墳の歴史的な価値だけでなく、保存されるとしても、その後、どうやって活用するかを考えることも重要だ。

 ▽久保田尚委員(埼玉大大学院理工学研究科教授)=今朝七時に現地を見に行ったら、交通混雑対策のために子ども達が集団登校していた。私の子どもには、こんな道を歩かせられない。これを議論のベースに考えるべきだ。道路建設と古墳保存のどちらもが百点を狙えないかもしれない。双方が八十点でいいという気持ちがなければ、両立は難しいだろう。

 市側代替案について

 ▽大橋委員=問題はテクニカル(技術的)なものになっている。代替案があるとしたら、どうなのか。沼津市として出してほしい。

 ▽藤岡啓太郎副市長=前提条件を変えない限り、代替案は見つからない(この後、変更可能な前提条件を説明)

 ▽久保田委員=前提を考えれば、好ましい結果になるのではないか。ただし、走行車両の最高速度を落とすことになると、道路全体のどの地点から落とすことにするのかが安全上の問題となる。車線数については、四車線道路は二車線道路の二倍の通行が可能になるという単純な計算ではなく、四倍となる。これは重要な問題だ。

 ▽矢野委員=周溝の外から五㍍離れたところに道路を造らないといけないという条件にこだわる必要はないのではないか。

 ▽藤岡副市長=(四車線道路から二車線道路に設計を変更するため必要な交通量推計調査の方法を問われて)沼津南一色線の交通量推計は、一日一万二千台より上か下かだけを判断するのが目的なので、費用を考えるとエリアを限定して簡易に行う予定だ。東駿河湾環状道路の整備の進展が交通量に与える影饗も踏まえる。

 ▽矢野委員=隣接する神社敷地(高尾山穂見神社と熊野神社)と合わせた古墳の利活用が重要だろう。史跡公園など、古墳をまちづくりの中に位置付けた積極的な案も次回で提示してほしい。沼津のシンボルとして古墳を活用することを考えるのが大事ではないか。

 アドバイザーの意見

 ▽神田昌幸氏(国土交通省街路交通施設課長)=次回に提示される代替案では、通学路の安全を織り込む必要がある。他の道路網との関係も見据えなくてはならない。速度を落とすという変更は、必要になってくるだろう。どの地点から落とすのかが課題になる。これも他の道路との関連を考慮するのが重要だ。

 車線数を減らすのは、冒険的な試みだ。安全のための様々な措置が必要になるだろう。

 ▽禰宜田佳男氏(文化庁主任文化財調査官)=今回の協議会は文化財保存の上でも、きわめて珍しいケースだ。高尾山古墳の重要性は言うまでもない。価値を損なわない形での現状保存が望ましい。

 高尾山古墳は墳丘が高いのが特徴で、これほどの高さの事例は他には少ない。これが高尾山古墳の価値を高めている。墳丘を残すことは、とても重要だ。交通安全の問題については、通学路の変更などによる安全確保はできないのか。

【沼朝平成2795()号】

沼津市HPの議事録です。クリックしてお読みください。 

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