静岡県最初の民営電気鉄道

駿豆電気鉄道

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駿豆線「島津線」 _PAGE0001-1 電灯会社の鉄道 一〇路線計画案 明治中期、文明開花の花形の一つであった電灯事業を、駿豆地方にも花咲かせようと考えていた有志たちかいた。田方郡函南村の仁田大八郎、小柳津五郎・渡辺万介
.贄川邦作ら地元有力者が発起人となり、明治二十九年(一八九六)五月三日、三島町六反田に資本金五○万円をもって駿豆電気株式会社が創立された。駿豆電気は、函南村平井の柿沢川に発電能力二七五キ口ワットの水力発電所を建設して、静岡県下最初の電灯会社として花やかにスタートした。駿東・田方両郡下を配電区域とし、のちに資本金一〇〇万円に増資して、神奈川県の湯河原温泉にまで配電区域を拡大した。

 全国の電灯会社の多くは、明治三十五年(一九〇二)から明治四十年代にかけて、自社の電気を動力として鉄道事業を兼業する傾向が次第に強くなっていた。明治三十八年、駿豆電気は第一〇期定時株主総会の席上、これまで社内で検討を重ねてきた鉄道事業案を発表した。

 その計画案は、三枚橋より三島広小路に至る旧東海道往還(明治三十六年十一月十二日免許取得)と、三枚橋より沼津停車場に至る市街線との連携敷設、三島広小路より大中島・小中島両町を経由して三島町停車場に至る市街線、小中島町より分岐して伝馬町に至る大社線、さらに、沼津ー鈴川線、沼津ー江ノ浦線、三島―-湯本線、鈴川ー静岡線、吉原ー甲府線、修善寺ー湯ヶ島ー伊東線であった。

 この発表を聞いた株主の中には、白分の耳を疑い重役陣の経営心理に疑念さえ抱く者もいたが、会社側は既定方針通り、終始一貫した態度で計画を推進する構えをみせた。

 静岡県下の民営鉄道史上において、たった一社でこれだけ多くの鉄道敷設計画を、株主総会の席上とはいえ発表した会社は、駿笠電気以外に類例をみない。この背景には、二〇世紀という新時代にふさわしい産業振興・日常生活の向上に不可欠な電力供給という花形事業を経営していたからであろう。

明治三十九年に三島 沼津間電車開通 敷設工事は、まず明治三十八年十一月三島六反田・沼津三枚橋間が工費約一五万円で着手した。明治三十九年六月二十五日沼津三枚橋・上土間、同年六月三十日沼津三枚橋平町・志多町・城内聞の免詐がそれぞれ下付された。同年十月一日、駿豆電気株式会社は駿豆電気鉄道株式会社に社名変更する。

その間にも軌道建設工事は進められた。同年四月車庫工事、五月電車専用の黄瀬川架橋工事、六月道路拡張工事、七月軌道敷設工事、九月架線工事、同年十一月十日ついに竣工した。

 区間は、三島広小路(六反田)・木町・千貫樋・伏見・玉井寺前・八幡・長沢・国立病院前・臼井産業前・黄瀬川橋・黄瀬川・石田・麻糸前・山王前・平町・三枚橋・志多町・追手町・沼津停車場前であった。軌間三フィート六インチ(一〇六七ミリ)、架線電圧六〇〇ボルトのシングルトロリー式、待避線三ヵ所。車庫にはすでに最新形の四輪電動車六、付随車一、貨車四(有蓋二、無蓋二)、計一一両が晴れの出番を待ちわびていた。

 明治三十九年十一月二十八日、六反田(三島広小路)・沼津停車場前問四マイル八チェーン(約六・五キロ)が開通する。静岡県最初の電車運転である。全国では京都・愛知・大分・神奈川・三重・東京・大阪・高知に次ぐ九番目であった。

 『静岡民友新聞』は、開業の模様を明治三十九年十一月二十九日付の三面トップで次のように掲載している。

「駿豆電鉄開業式 参観人数万 未曽有の盛況なり前日来の秋雨名残なく霽れて、富士の霊峯は裾まで白衣を垂れ、愛鷹箱根の紅葉錦を織り成して、秋郊の光景三春の花にも勝るの時、駿豆電鉄の開業式は昨1日盛大に挙行せられたり…」

 開通当日は、大社前と小中島・沼津平町の三カ所に大緑門を建て、街頭には紅白の幔幕と祝灯を揚げるなど、戦勝景気の横溢した三島・沼津両町民は町を挙げての歓迎であった。碧空にさく裂する煙火・花電車・珍しい蓄音器の公開・仮装行列・山車・屋台・芸奴手踊・楽隊などが繰り広げられるなかで、数百人の来賓による大祝賀式が開催された。

当日は電車を終日無賃としたため、歓喜した沿道の住民は群れをなして電車に殺到する人気であった。来賓の李家静岡県知事を乗せた沼津発の電車が途中で故障し、祝賀会場で待っていた藤山雷太杜長以下重役らが心配しているところへ、知事一行は徒歩で会場にたどり着くというひと幕もあった。開通時には、全線を約四十分で運転した。

三島市内線六反田・三島田町間開通 駿豆電気鉄道はその後、三島市内線の電車敷設の免許を明治四十年九月二十五日受け、翌年一月から工事に着手した。

 同八月三日六反田(三島広小路)・三島町(三島田町)間四〇チェーン(約〇・八キロ)が開通する、次いで、第二期工事予定の伝馬町に至る大社線は、敷地の交渉がまとまらず開通されずに終わる。この駿豆市内線は、広小路で伊豆鉄道の線路と交差する個所があった。当時の鉄道技術では、レールの、立体交差はできなかった。もちろん.半面クロスの認可も、安全性のうえから認可されなかった。したがって、市内線は伊豆鉄道のレールと交差する手前で、レールは中断していた。乗客は踏切をはさんで徒歩で横断し、車掌は降車して電車を押して交差点を渡ったという。

市内線の区間は、歩いて五・六分のところで、電車の運転間隔は三十分だったから、乗車する人はよほど物好きな人か、花街の広小路へ遊びにいく人が格好をつけてわざわざこのチンチン電車に乗った。三嶋大社の例祭には、寸津電気鉄道では子供たちを無料で乗せるという粋なはからいを示し大変喜ばれた。

 しかし、大正四年(一九一五)一月十八日限りで、三島市内線は開通からわずか七年半足らずで廃線となる。

大正六年駿豆鉄道に改称 駿豆電気鉄道は、創立当初から豆相鉄道を買収して電化の計画を立てていた。明治四十年七月十九日より豆相鉄道は伊豆鉄道に譲渡していたが、銀行家の花島兵右衛門らの鉄道経営は思わしい業績が上げられず、明治四十四年十月駿豆電気鉄道に譲渡した。

 大正五年になると、従来より電力供給契約を行っていた富士水力電気株式会社との複雑な事情と、藤山社長が東京の事業に専念し、二代目渡辺万介社長は上京中に客死、三代目西沢社長も他の事業上の失敗から退陣という内部事情もあって、同年十月五日甲州系財閥が支配する富士水力電気に吸収合併され、同社の鉄道部となる。

 大正六年十一月五日三島町・沼津駅前間の電気軌道路線と、三島駅(JR下土狩駅)・大仁間の蒸気鉄道の権利一切を譲り受け、新しく発足した駿豆鉄道株式会社は、資本金三〇万円、従業員一四四名であった。

 年十二月に本社を東東市麹町から三島町(現三島田町駅前)に移し、資本金一〇〇万円に増資した。ここに現在の伊豆箱根鉄道株式会社の基礎となる駿豆鉄道は、新しく発足することになったのである。

活躍した三島 津間軌道線

 大正時代はバスとの競争もなく、軌道線の黄金時代で、大正十四年(一九二五)七月には最後の新車20(後のモハ10形)四両が中興の花を咲かせている。

 その後、各地でバスが台頭したが、この駿豆軌道線は他の私鉄にくらべ乗客が多く利用し、日華事変が勃発するころまで順調なようであった。第二次大戦が始まると、石油統制によって悲惨な姿をさらしたバスとは反対に、再び輸送の主役として登場することになる。

 昭和九年(一九三四)ごろは、早朝・夜半は二十四分毎、昼間十二分毎で、広小路・沼津問二十四分で走った。広小路始発五時二十四分、沼津五時四十八分で、終電広小路発二十三時、沼津発二十三時二十四分であった。沿線途中の東京麻糸工場へ通勤する女子工員のため、広小路発七時、夕方は沼津発十七時が運転された。小学生の遠足、海水浴客、団体貸切用にもよく利用された。

 やがて戦争激化とともに軌道線にも残酷物語がひたひたと押し寄せた。電車のモーター保護のため、パラノッチ運転が禁止され、全線二十四分運転が二十六分にスピードダウンし、十二分間隔運転が十三分間隔となった。広小路・三島田町問の本線乗り人れも休止され、車庫出人以外すべて三島広小路発着となった。

 定員増加のため車内のシートが半減し、戦争末期にはとうとう全座席がなくなり、まるで荷物電車並みとなった。男性従業員が戦地に発って大半の従業員が女子に替わり、若い女性が電車のハンドルを握って勇敢に運転した。昭和二十年七月十七日には、沼津市石田坂で、空襲によりモハI形№2が焼失した。

 終戦後は、資材不足で車内の窓はガラスがほとんどない板張りで、まるで囚人護送車のように変わり果てた。しかし、当時の食糧難を反映して農家への買い出し客やヤミ屋が横行し、列車は終日すさまじい混雑ぶりで、十三分ヘッドでも始発で三本は見送らないと、乗車できないくらい長蛇の列が延々続いた。

 フリークエント この路線のダイヤは注目に値する。三島広小路発五時二十四分、五時三十六分、五時四十八分、マビスの先駆 六時から二十二時三十六分まで0012243648で、沼津発は五時四十八分から二十二時四十八分まで、やはり十二分毎のラウンドナンバーだから、どの停留所も発車時刻が大変憶えやすい。沿線の人たちの時計がわりの役目も果たし、利用客に待たせないこの時刻表は、まさしくフリークエントサービスの先がけともいえよう。

 昭和三十年代に人ると、バス路線との競争が激化し、営業係数も次第に増加していった。しかし、この軌道線に壊滅的な打撃を与えたのは、昭和三十六年六月二十八日にこの地方を襲った集中豪雨で、沿線唯一の大橋梁が流失したことである。このため列車は、三島広小路・国立病院前問の折り返し運転となり、国立病院前・沼津駅前間は、列車に接続してバスの代行運転となった。

 そしてついに昭和三十八年二月五日三島・沼津問の東海道本線とほぼ平行に走った静岡県下では数少ない駿豆軌道線は、五十七年にわたる歴史的使命を果たしてその幕を閉じたのである。

(「静岡県鉄道興亡史」森信勝著平成9年12月27日発行)