福原信三と美術と資生堂展・企業イメージをデザイン
これまで美術館と企業の関係といえば、優れた企業コレクションを展示したり、企業がメセナの形で展覧会の支援をしたりすることが多かった。企業活動そのものを展覧会に取り上げることはなかったのではないか。
東京の世田谷美術館で十一月四日まで開かれている「福原信三と美術と資生堂展」は、一つの企業を美術という切り口で真正面から取り上げた珍しい展覧会である。資生堂が選ばれたのは、大正から昭和にかけての写真界で実作の上でも、理論上でも重要な役割を担った初代社長福原信三の存在が大きかったろう。
信三は資生堂の創業者福原有信の三男で、薬学を学ぶため米国に留学。その帰途、欧州に寄って川島理一郎や藤田嗣治ら日本人画家たちと親交を深めた。写真家としての道を決めたのは、パリでのことだったといわれる。
展覧会は、光と影が織り成す一瞬をソフトフォーカスでとらえた信三の代表作「巴里とセイヌ」などの写真作品をはじめ、交友のあった川島らの作品を展示。
交友関係から資生堂ギャラリーの活動が始まる様子を追っていく。驚かされるのは山本丘人、須田国太郎、駒井哲郎らそうそうたる美術家が、同ギャラリーで初個展を開いていることである。
また欧米で広告宣伝の重要性を知った経営者としての信三は資生堂に意匠部を設け、アールヌーボーを基調に唐草模様やアールデコのデザインを取り入れたポスターや新聞広告、パッケージなどを次々と生み出していく。ポスターにしばしば登場する断髪、洋装の女性像は当時の先端ファッションだった。こうして「リッチでスマートでモダン」な企業イメージが定着していくのである。
そのデザインポリシーは一九四八年に信三が亡くなった後も一代で終わることなく、山名文夫らのデザイナーによって継承されていく。
それにしてもなぜ企業なのか。美術評論家で世田谷美術館の酒井忠康館長(本紙読書欄に「美術本の一隅」を連載中)によれば、公的施設の管理を民間でもできるようにした指定管理者制度が導入されて以来、美術館の企業化が問題になっているのと無関係ではない。
美術館の企業化に対して、逆に企業の文化度とは何かを問いかけたのがこの展覧会だ。企業を通して生活の中の美とは何かを考えさせるこの展覧会はそうした時代が生んだ美術館の一つの冒険かもしれない。
これまで美術館と企業の関係といえば、優れた企業コレクションを展示したり、企業がメセナの形で展覧会の支援をしたりすることが多かった。企業活動そのものを展覧会に取り上げることはなかったのではないか。
東京の世田谷美術館で十一月四日まで開かれている「福原信三と美術と資生堂展」は、一つの企業を美術という切り口で真正面から取り上げた珍しい展覧会である。資生堂が選ばれたのは、大正から昭和にかけての写真界で実作の上でも、理論上でも重要な役割を担った初代社長福原信三の存在が大きかったろう。
信三は資生堂の創業者福原有信の三男で、薬学を学ぶため米国に留学。その帰途、欧州に寄って川島理一郎や藤田嗣治ら日本人画家たちと親交を深めた。写真家としての道を決めたのは、パリでのことだったといわれる。
展覧会は、光と影が織り成す一瞬をソフトフォーカスでとらえた信三の代表作「巴里とセイヌ」などの写真作品をはじめ、交友のあった川島らの作品を展示。
交友関係から資生堂ギャラリーの活動が始まる様子を追っていく。驚かされるのは山本丘人、須田国太郎、駒井哲郎らそうそうたる美術家が、同ギャラリーで初個展を開いていることである。
また欧米で広告宣伝の重要性を知った経営者としての信三は資生堂に意匠部を設け、アールヌーボーを基調に唐草模様やアールデコのデザインを取り入れたポスターや新聞広告、パッケージなどを次々と生み出していく。ポスターにしばしば登場する断髪、洋装の女性像は当時の先端ファッションだった。こうして「リッチでスマートでモダン」な企業イメージが定着していくのである。
そのデザインポリシーは一九四八年に信三が亡くなった後も一代で終わることなく、山名文夫らのデザイナーによって継承されていく。
それにしてもなぜ企業なのか。美術評論家で世田谷美術館の酒井忠康館長(本紙読書欄に「美術本の一隅」を連載中)によれば、公的施設の管理を民間でもできるようにした指定管理者制度が導入されて以来、美術館の企業化が問題になっているのと無関係ではない。
美術館の企業化に対して、逆に企業の文化度とは何かを問いかけたのがこの展覧会だ。企業を通して生活の中の美とは何かを考えさせるこの展覧会はそうした時代が生んだ美術館の一つの冒険かもしれない。