2009年05月

新型インフル:13年前に存在?

新型インフル:ウイルス13年前に存在?
 三島遺伝研が推定
 新型インフルエンザウイルスは、十三年前には既に存在していた可能性があるとの.研究を、三島市の国立遺伝学研究所の五條堀孝教授(分子進化学)、小林由紀研究員らのチームが二十七日、遺伝子データの分析からまとめた。
 計八本あるウイルス遺伝子のうち、感染に重要な働きをする「ヘマグルチニン(HA)」に着目して進化の経路をたどったところ、北米の豚のウイルスから分岐した時期が一九九六年ごろと分かった。ほかの七本の代表的な遺伝子について分析した結果でも、ほぼ同様の結果が得られた。ただし推定には二年程度の誤差があるという。
 五條堀教授は「分岐した時期は意外に古く、新型ウイルスは以前から存在していたという結果が得られた。満を持して人に感染したと言えるのではないか」としている。
 インフルエンザウイルスは豚や鳥、人のウイルスの遺伝子が混じり合い、人で流行する新型が現れるとされる。今回の分析でも鳥と豚、人のウイルス遺伝子の交雑が複数回起きたという結果が得られ、最近発表された米国の研究を裏付けた。
(静新平成21年5月28日(木)朝刊)

アンゼンフーズ・米久完全子会社化

 アンゼンフーズの株式取得
 米久が完全子会社化
 米久は二十六日の取締役会で、冷凍食品製造販売のアンゼンフーズ(沼津市、山形晋一社長)の全株式を取得し、完全子会社化することを決めた。譲渡日は六月一日。社名変更は行わない。山形社長は取締役会長となり、新社長には米久の出向者が就任する。
 発行済全株式十五万四千株のうち、米久は一万株を所有。六月一日の譲渡契約締結で、アンゼンフーズ役員が保有する十四万四千株を取得する。買収額は公表していない。
 アンゼンフーズは一九七一年設立。中華点心などの冷凍食品を製造し、二〇〇八年四月期には四十四億四千七百万円を売り上げた。米久はアンゼンフーズが持つ製品開発力を生かし、デリカテッセン分野の冷凍食品事業を強化する。
(静新平成21年5月27日(水)朝刊)

沼津宮本女性殺人事件容疑者

沼津女性殺害
 仕事用カッターが凶器 事件時、容疑者車内に
 沼津市宮本の山林で平成十六年十一月、富士市(当時富士川町)の会社員の女性=当時(二五)=が他殺体で見つかった事件で、殺人容疑で逮捕された建設作業員松井健一容疑者(四三)=沼津市新沢田町=が、事件当時車内にあった仕事用のカッターナイフを使って女性を殺害したことが二十五日、捜査本部への取材で分かった。
 捜査本部は、松井容疑者は偶然会った女性を車で連れ去り、遺体発見現場近くでカッターナイフを使って殺害したとみている。
 捜査関係者によると、現場付近に落ちていたカッターナイフはカッターとのこぎりの刃が一枚ずつ付いた特殊なタイプで犯人の職業をある程度推測できたという。松井容疑者は事件当時も建設作業員として働いていた。
(静新平成21年5月26日(火)朝刊


女性殺人 容疑認める供述
5年前、沼津市の山林で女性が殺害された事件で、逮捕された建設作業員の男が警察の取り調べに対して、「私がやりました」と容疑を認める供述をしていることが、警察への取材でわかりました。
男は「女性とは偶然出合って殺害した」とも供述しているということで、警察で詳しく調べています。この事件は平成16年11月、沼津市内の山林で、会社員の望月敏子さん(当時25歳)が首を刃物で切られて殺害されたもので、沼津市の建設作業員、松井健一容疑者(43)が殺人の疑いで逮捕されました。
松井容疑者は逮捕されたあと、警察の取り調べに対して「そんなことは知らない」などと容疑を否認していましたが、その後の取り調べで、「私がやりました。申し訳ございませんでした」と容疑を認める供述をしていることが、警察への取材でわかりました。
松井容疑者は警察の取り調べに対して、「望月さんとは偶然出会って、殺害した」と供述しているということで、警察で詳しく調べています。
(NHK静岡ニュース)


沼津女性殺害
 カッターに特殊性
 殺人容疑で男送検
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 沼津市宮本の山林で平成十六年十一月、富士市(当時富士川町)の会社員の女性=当時(二五)=が他殺体で見つかった事件で、凶器とされるカッターナイフが捜査対象者を絞り込む際の有力な手掛かりになっていたことが二十一日、沼津署捜査本部への取材で分かった。
捜査本部は同日、沼津市新沢田町一五ノ三六、建設作業員松井健一容疑者(四三)を殺人容疑で静岡地検沼津支部に送致した。
 捜査本部によると、カッターナイフはカッターとのこぎりの刃が一枚ずつ付いた特殊なタイプ。県内では年間約二百本が売れているという。県東部では事件発生当時、沼津市内を含む約十五店舗で販売されていた。
 捜査関係者によると、のこぎりの刃も付いたカッターナイフだったことから、犯人の職業をある程度推測することができたという。松井容疑者は事件当時も建設作業員として働いていた。捜査本部はカッターナイフの入手先や使用目的などを調べている。
 逮捕容疑は、同年十一月七日午後六時ごろ、沼津市宮本の山林で、女性の首をカッターナイフで切り付け、失血死させた疑い。
(静新平成21年5月21日夕刊)

沼津女性殺害
容疑者が依然否認
 沼津市宮本の山林で平成十六年十一月、富士市(当時富士川町)の会社員の女性が他殺体で見つかった事件で、殺人容疑で逮捕され、二十一日に同容疑で静岡地検沼津支部に送致された建設作業員松井健一容疑者(四三)=沼津市新沢田町=は、依然として「やってないことは分からない」と供述し、容疑を否認していることが同日、捜査関係者への取材で分かった。
 捜査関係者によると、現場の遺留物と松井容疑者のDNAの型が一致したことが逮捕の決め手になったとしている。
(静新平成21年5月22日(金)朝刊)


女性殺害で男逮捕 発生から4年半、容疑を否認
05/20 15:03(静新webnews)
 沼津市宮本の山林で平成16年11月、富士市(当時富士川町)の会社員の女性=当時(25)=の他殺体が見つかった殺人・死体遺棄事件で、沼津署捜査本部は20日、殺人の疑いで、沼津市新沢田町、建設作業員の容疑者(43)を逮捕した。
 逮捕容疑は、同年11月7日午後6時ごろ、同所の山林で、刃物で女性の首を切り付け、失血死させた疑い。
 捜査本部の調べに対し、容疑者は「そんなことは知らない」と容疑を否認しているという。
 捜査本部によると、聞き込み捜査などから同容疑者が浮かび上がった。捜査関係者は現場に残された証拠資料のDNA鑑定が逮捕の決め手になったとしている。
 容疑者は伊豆の国市内の立ち回り先で逮捕された。捜査本部は単独による犯行で、殺害場所は遺体発見場所から離れていないとみている。容疑者の自宅など沼津市内の数カ所を捜索している。
 同市の実家に帰省していた女性は同年11月7日午後5時半ごろ、1人で犬の散歩に出掛けたまま行方不明になった。2日後の9日、実家から約1・2キロ離れた山林で遺体で発見された。首を刃物で切られていた。遺体が見つかったのは、人通りが少ない脇道から約10メートル下の山林の斜面。普段の散歩コースから離れた場所で、女性が家を出た直後に犬だけが帰ってきていた。
 捜査本部は現場付近に落ちていた凶器とされるカッターナイフを押収した。カッターとのこぎりの2本の刃が付いた大型のナイフだった。
 警察庁の捜査特別報奨金対象事件に指定され、20年6月に期限切れになった。不審者や不審車両、凶器のカッターナイフなどに関する情報が寄せられたが、事件との関連は確認できなかった。人けがない場所のため情報が少なく、捜査が難航していた。


ヒノキ林で女性殺害容疑、43歳男を逮捕…静岡・沼津
 静岡県警沼津署は20日、同県沼津市の山林で2004年11月に女性会社員(当時25歳)を殺害したとして、同市新沢田町、建設作業員松井健一容疑者(43)を殺人容疑で逮捕した。
 発表によると、松井容疑者は04年11月7日午後6時頃、同市宮本のヒノキ林で会社員の首をカッターナイフで切りつけ、失血死させた疑い。松井容疑者は「身に覚えがない」と容疑を否認しているという。
 会社員は同日、同市内の実家から飼い犬の散歩に出かけたまま行方がわからなくなり、2日後に約1・2キロ離れた林の中で遺体で発見された。事件は07年6月から1年間、有力情報の提供者に懸賞金が支払われる警察庁の「公費懸賞金制度」が適用された。
(2009年5月20日11時30分 読売新聞)

沼津兵学校と関係深い福井藩

「沼津兵学校と関係深い福井藩」(沼朝平成21年5月24日(日)記事)

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史談会総会で熊澤恵里子東農大教授が講演
 多額の藩費使い藩士送る
藩内改革、教育課程に多大な影響
 沼津史談会(四方一瀰会長)は総会を市立図書館視聴覚ホールで開催。議事終了後、「沼津兵学校と福井藩」をテーマに東京農業大の熊澤恵里子教授・の講演を聴いた。熊澤教授は早稲田大卒、同大大学院博士課程を修了し、幕末維新期における教育近代化などを研究している。
 自己紹介で熊澤教授は、「江戸の末期から明治のはじめ、封建社会から近代社会へ移る時の教育の変革を研究し、福井藩と沼津藩の関係を調べている。幕府の教育機関を研究するうちに徳川家が静岡に移り、その後どうなったのかに興味を持ち、沼津兵学校にたどり着いた」という。
 兵学校について「先進的な教育内容もさることながら、他藩の遊学生を受け入れ、他藩の学生を育てた」ことを特徴として挙げた。
 一方、「自藩の学生を送り込んで自藩の建て直しを図った藩で、一番多くの遊学生を送り込んだ」福井藩について、沼津兵学校が看板を下ろした明治四年以後、福井に帰った人、あるいは東京などに出て活躍した人など多くの歴史的人材が輩出したことを指摘。福井県出身者に博士号取得者が多いという話から「そのルーツが沼津兵学校に求められることは、あまり知られていない」とした。
 福井藩十六代藩主の松平慶永(よしなが=号・春嶽)は逸材を登用し、藩政改革、藩校改革に取り組んだ人物。登用された人達が、教育改革でどのように活躍したかなどは歴史研究者の間では話題になっても「誰も沼津との関係は取り上げていない。(そのため)教育の近代化過程における沼津と福井との関係で研究に取り上げてきた」という。
 熊澤教授は、大学院修士課程では、幕府の教育機関と沼津兵学校について、その関連性を含めて論文を書いたが、この過程で明治史料館の樋口雄彦学芸員(当時。現・国立歴史民俗博物館総合研究大学院大学准教授)に世話になったという。
 修士論文以降は、もっぱら福井藩の方の研究にかかりっきりになり、沼津とは縁遠くなった。
 沼津兵学校については、「四方会長、樋口先生以上のものはできない」と話し、福井藩とのかかわりの中で教育の近代化を解明しようと努めている、という。
 福井藩の藩政改革や藩校改革について、「福井藩は幕府に疎んじられ、政局が安定していない中で進取の意気を貫いた。函館戦争では諸藩預かりとなった人を厚遇した」とし、藩校改革について「大きな藩費を使って藩士を沼津兵学校に送り込んだ。西周の学校観が春嶽の学校観に一致していた。藩校改革に影響を与えた」と説明。春嶽は西を「兵学の師」と仰いでいたという。
 幼いの頃から春嶽につき教育の主導的立場だった側用人の中根雪江(なかね・ゆきえ)も春嶽の師と言える立場だったようだ。
 春嶽は、藩主となった天保期当初、藩政は上級藩士主導による改革が行われていて藩主といえども急激な藩政と藩校改革はできなかった。
 藩全体が倹約ムードで、安政期には藩財政に由利公正(ゆり・きみまさ)、教育改革に橋本左内(はしもと・さない)を登用し、教育では私費、藩費の遊学の規定が決められるなど改革ムードが生まれる。しかし、安政五年(一八五八)の大獄で、橋本左内が死罪、中根が辞職して藩政改革は窮地に追いやられる。
 文久元年(一八六一)に中根が復職し、同二年に春嶽が政治総裁職に就任。由利の記録によれば藩の財政は経済的に豊かだったが、どのぐらいの蓄えがあったのかは分からない、という。
 文久から慶応期にかけて、倹約策から富国策へと政策転換が行われ、遊学が盛んに行われるようになる。ただ、春嶽に招かれ藩政改革を指導した横井小楠(よこい・しょ
うなん)と西周の流れの藩士達とは、グループが異なり、いわゆる派閥のようなものがあった、という。
 教育改革は明治期に入るとさらに強化され、八歳以上での就学が徹底されるようになる。明治初期に福井藩学校規条が作られるが、「内容的には沼津兵学校のカリキュラムを取捨選択したものだろう」と熊澤教授。
 「沼津兵学校と違うのは『中学校』という名が出てくること。春嶽はヨーロッパの小・中・大学(プロイセン=ドイツの学校体系)を知り、小・中学校が福井に設置されることになったのだろう。現在の小・中学校とは全然違う。年齢的にも全く異なる」と説明。外塾が十二歳までで、十二歳から小学校、十七歳から二十歳まで中学校だったという。
 一方、沼津兵学校に遊学し、福井藩に戻ってきた人には理数系の教師になった人が多かった。しかし、福井で理数系が優秀だと言われて兵学校に遊学しても、沼津での試験の成績は思うようでなかったとの話が伝わっていて、熊澤教授は「沼津(兵学校)はレベルが高かった」。
 当時、遊郭から兵学校に通った学生もいたが、「それが分かると閉門(福井への帰還命令)となり、家族にまでお咎めがあった記録が残っている」という。
 教科に関しては、「藩校改革の流れを見ると重視しているのは兵法や軍事技術。藩校における成績が重視され、自然科学系の学問を習得した人が藩に重用され、(学問を習得していれば)下級武士にも出世の道が開かれると聞いて下級武士の家で教育熱が上がった」と解説。
 春嶽自身は非常に勉強熱心で、学問を教える人を招請したり、藩士を他藩へ遊学させたりと将来の目をもって投資していたが、「とりわけ沼津兵学校への遊学は成功した」。
 兵学校について「学問体系が充実していた。とりわけ自然科学が充実していた。(慶応四年に出来た)慶応義塾はサイエンス(の学科)が明治十六年にようやく行われ(始め)た。自然科学系が軍事以外に活用され、有意義であることが、あまり分かっていなかったのかなと思っている」とし、慶応義塾を開いた福沢諭吉は長男をアメリカに送り、農学を勉強させようとしたが、農学にはサイエンスが必要であり、息子は農学から商学に専攻を変えたという。
 慶応義塾におけるサイエンス新設はこのような背景があったようだとし、「沼津におけるきちんとした勉学体系が、当時としては、いかに画期的だったかが分かると思う」と指摘した。
 福井では「普通の学」と呼んだ教育課程があったが、「普通」という名とは違い高度な内容で、習得できずにドロップアウトする人も多かったという。しかし、藩の仕組みとして、習得できない人は正規の出世を期待できなかったようだ。
 この後、福井藩から沼津兵学校への遊学者の兵学校時代の数学のノートをスライドで上映。封(対)数計算のページを映し、黒板か他人のノートを間違って写したのか、「10g」が、どう見ても「boy」と書かれていることなどを紹介。「沼津で学んだものを持ち帰ったものが各地に残っている可能性がある」とした。
 さらに、「維新期の諸藩の学校改革は、何らかの形で沼津との関連があったと思っているが、福井は特に関係が深かった」と指摘。
 翻って「西周が兵学校を創設し目指したものが何だったのか。コモンサイエンスのコモンは市民という意味で、市民の学問ということ。これからは西が(兵学校を開校するにあたり)参考にしていたイギリスについて研究していきたい」と話した。

沼津戸田小児童が放流

 沼津 戸田小児童が放流
 タカアシガニ「大きくなれ」
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 タカアシガニの漁場として知られる沼津市戸田の沖合で二十二日、地元の市立戸田小の児童二十人がタカアシガニ約九十匹を放流した。沼津市商工会戸田支所が、年々漁獲量が減少しているカニの個体数を確保し、児童に生態や水産資源の大切さを学んでもらおうと毎年実施している。
 放流を前に、児童を代表して高田純平君(11)が「たくさんカニが増えることを祈って放流します」とあいさつし、全員で生態を調べるための標識付けや重量測定を手伝った。甲羅の大きさが児童の顔ほどあるカニに「大きい」「おいしそう」と歓声を上げながら懸命に取り組んだ。
 港の沖合約一?の水深約百五十?の地点での放流では、「大きくなれよ」などと声を掛けながら、両手に抱えたカニを海に放した。
 タカアシガニを家でよく食べるという水口礼君(11)は「生きているカニにワクワクした。大人になっても食べられるように増えてほしい」と話した。
 県水産技術研究所によると、過去八年間に七百六十八匹のカニを放流し、これまでに三十二匹を再び捕獲した。中には三重県大王崎で捕獲したカニもあるという。
(静新平成21年5月23日(土)朝刊)
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