なぜ沼津かー古代沼津の原像をさぐるー
沼津市史完結記念講演会 平成21年8月29日(土) 原 秀三郎
沼津の地名のおこりは鎌倉末期・南北朝時代で、それ以前は奈良時代頃より古家郷川津里(ふるえごうかわずのさと)「古家=古江」といったようです。
奈良時代初めに旧上町(沼津駅付近)に郡役所がおかれるまでは、沼津の中心は式内丸子神社旧社地周辺にあり、観音川の水運が重要な役割を果たしていたと思われます。
一 なぜ沼津かーそして、沼津の源郷は?
1沼津の初見史料2鍵は観音川にあった3沼津中心地域の三区分と中核神社
(ィ)本地区ー式内丸子神社(ロ)大岡地区ー日吉神社(ハ)香貫地区ー楊原神社
二 丸子神社と間門(まかど)
1 式内丸子神社と丸子部(丸子=麻呂子・麻呂=男の子)
丸子はマロコ、皇子をいい、丸子部(部=人間集団のこと・財産形態)は皇子養育のための部民集団、→壬生(みぶ)部(乳部)に編成、その地方の管理者が壬生部直(あたり)。駿河では多氏(本姓)郡司氏族であった。
○多氏と科野国造金刺舎人氏は同族、大諏訪、小諏訪はこれに因むか。小諏訪社は古社。
2 間門は古く天門(アマカド)、間家津(マカド)で、アマカド=海人が津amakato
長谷寺観音堂/真砂町→この辺りに舟船溜まりがあったのでないか、→観音川、草刈川は外海への水路。又子持川は郡家(郡役所)、近世では沼津城の水路となり、更に古くは沢田遺跡集落など根方方面への水路ではなかったか。
3 ?明塚古墳(全長52・5?)は多氏の初代の墳墓(四世紀前半初めの頃)か。関連集落ー軒通遺跡(弥生中期)伴名田遺跡(弥生後期)
○伝承・古典・記録の考査による検証・・・・課題
三、沼津地域の主要氏族とその本拠
1 國造氏族ー物部氏・・・・根方方面から大岡地区
○金岡地区・辻畑古墳の出現、前方後方墳、全長62?。(くりぬき式舟形木棺(5×1?)、三世紀三・四十年代木造。崇?天皇・ヒミコ時代の古墳がするがの地で確認された。)
2 王領=皇室領管理氏族ー丸子部・壬生部の管理ー多氏・・・本地区(松長?東へ)
3 食膳供給氏族(荒賢魚貢進)ー膳大伴支配と稚賢宅倉管理・・・柏原?田子の浦(貢納積出港)
付 春日部と糟地蔵伝説
大春日朝臣伝承ー糟は酒粕→造酒技術/春日部ー宇良郷(江の浦)・古家(江)郷ー香貫地区光明院の糟地蔵ー市場。韮山江川家ー江川酒(本姓は宇野氏、大和より移住)
沼津市史完結記念講演会 平成21年8月29日(土) 原 秀三郎
沼津の地名のおこりは鎌倉末期・南北朝時代で、それ以前は奈良時代頃より古家郷川津里(ふるえごうかわずのさと)「古家=古江」といったようです。
奈良時代初めに旧上町(沼津駅付近)に郡役所がおかれるまでは、沼津の中心は式内丸子神社旧社地周辺にあり、観音川の水運が重要な役割を果たしていたと思われます。
一 なぜ沼津かーそして、沼津の源郷は?
1沼津の初見史料2鍵は観音川にあった3沼津中心地域の三区分と中核神社
(ィ)本地区ー式内丸子神社(ロ)大岡地区ー日吉神社(ハ)香貫地区ー楊原神社
二 丸子神社と間門(まかど)
1 式内丸子神社と丸子部(丸子=麻呂子・麻呂=男の子)
丸子はマロコ、皇子をいい、丸子部(部=人間集団のこと・財産形態)は皇子養育のための部民集団、→壬生(みぶ)部(乳部)に編成、その地方の管理者が壬生部直(あたり)。駿河では多氏(本姓)郡司氏族であった。
○多氏と科野国造金刺舎人氏は同族、大諏訪、小諏訪はこれに因むか。小諏訪社は古社。
2 間門は古く天門(アマカド)、間家津(マカド)で、アマカド=海人が津amakato
長谷寺観音堂/真砂町→この辺りに舟船溜まりがあったのでないか、→観音川、草刈川は外海への水路。又子持川は郡家(郡役所)、近世では沼津城の水路となり、更に古くは沢田遺跡集落など根方方面への水路ではなかったか。
3 ?明塚古墳(全長52・5?)は多氏の初代の墳墓(四世紀前半初めの頃)か。関連集落ー軒通遺跡(弥生中期)伴名田遺跡(弥生後期)
○伝承・古典・記録の考査による検証・・・・課題
三、沼津地域の主要氏族とその本拠
1 國造氏族ー物部氏・・・・根方方面から大岡地区
○金岡地区・辻畑古墳の出現、前方後方墳、全長62?。(くりぬき式舟形木棺(5×1?)、三世紀三・四十年代木造。崇?天皇・ヒミコ時代の古墳がするがの地で確認された。)
2 王領=皇室領管理氏族ー丸子部・壬生部の管理ー多氏・・・本地区(松長?東へ)
3 食膳供給氏族(荒賢魚貢進)ー膳大伴支配と稚賢宅倉管理・・・柏原?田子の浦(貢納積出港)
付 春日部と糟地蔵伝説
大春日朝臣伝承ー糟は酒粕→造酒技術/春日部ー宇良郷(江の浦)・古家(江)郷ー香貫地区光明院の糟地蔵ー市場。韮山江川家ー江川酒(本姓は宇野氏、大和より移住)