大昭和都市対抗初V①
創部2年で本大会出場
戦後、いち早く復活したプロ野球と足並みをそろえるように、社会人野球も再び球音を響かせた。社会人野球は、敗戦から立ち上がろうとする地域の人々にとり、プロ野球より身近な存在だった。"ノンプロ"と呼んで熱い視線を送り、最大イベントの「都市対抗」ともなると、予選からスタンドに詰め掛けた。
1953年(昭和28年)、その都市対抗野球大会で吉原市(現・富士市)の大昭和製紙(現・日本製紙)が頂点に立った。前年の静岡商の選抜高校野球大会優勝に続く、2年連続の県代表による全国制覇だった。
大昭和野球部の誕生は47年2月。当時の専務、斉藤了英(後の社長、故人)の「野球をやろう」との声掛けが誕生の発端であった。
創部1年目から都市対抗予選に挑戦。いきなり1次予選である県大会を制し、山梨、神奈川、静岡3県で争う2次予選の甲神静大会は決勝に進出した。最後は神奈川の川崎トキコ(川崎市)に5ー7で逆転負けしたが、戦いぶりは2年目以降の飛躍を予感させた。
登録メンバーはスタッフを合わせ18人。うちプレーヤーは15人だったが、早大時代、首位打者を獲得した浅井礼三(故人)を筆頭に、大学や旧制中学で鳴らした実力派がそろっていた。
本大会行きの切符こそつかめなかったものの、実績のある神奈川勢と互角に渡り合ったことで、手応えありとみて、意欲的に戦力強化に踏み切った。
2年目の48年、強化策は早くも実った。県、甲神静大会を突破して、都市対抗本番に初名乗りを上げたのだ。大昭和だけでなく、県勢にとっても初の本大会出場だった。
初陣の舞台は愛知産業(名古屋市)に4ー5で屈し、1回戦で姿を消した。だが、終盤に猛追し、1点差まで詰め寄ったことから、「やれると手応えを得て、チームの意気は大いに上がった」との記録がある。
大昭和が初挑戦した47年の県予選参加は15チーム。企業チームは大昭和だけ
で、主体はクラブ勢だった。48年も15チームで争ったが、企業勢は4に増え、後に大昭和としのぎを削る日本軽金属が加わった。
2次予選の甲神静大会は49年まで。50年からは山梨、静岡勢が競う山静大会となる。 (敬称略)
(スポーツライター。加藤訓義)
(静新平成24年5月29日「静岡野球ノート」)