2012年05月

大昭和 都市対抗初V1

大昭和都市対抗初V①

 創部2年で本大会出場
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 戦後、いち早く復活したプロ野球と足並みをそろえるように、社会人野球も再び球音を響かせた。社会人野球は、敗戦から立ち上がろうとする地域の人々にとり、プロ野球より身近な存在だった。"ノンプロ"と呼んで熱い視線を送り、最大イベントの「都市対抗」ともなると、予選からスタンドに詰め掛けた。

 1953(昭和28)、その都市対抗野球大会で吉原市(現・富士市)の大昭和製紙(現・日本製紙)が頂点に立った。前年の静岡商の選抜高校野球大会優勝に続く、2年連続の県代表による全国制覇だった。

 大昭和野球部の誕生は472月。当時の専務、斉藤了英(後の社長、故人)の「野球をやろう」との声掛けが誕生の発端であった。

 創部1年目から都市対抗予選に挑戦。いきなり1次予選である県大会を制し、山梨、神奈川、静岡3県で争う2次予選の甲神静大会は決勝に進出した。最後は神奈川の川崎トキコ(川崎市)57で逆転負けしたが、戦いぶりは2年目以降の飛躍を予感させた。

 登録メンバーはスタッフを合わせ18人。うちプレーヤーは15人だったが、早大時代、首位打者を獲得した浅井礼三(故人)を筆頭に、大学や旧制中学で鳴らした実力派がそろっていた。

 本大会行きの切符こそつかめなかったものの、実績のある神奈川勢と互角に渡り合ったことで、手応えありとみて、意欲的に戦力強化に踏み切った。

 2年目の48年、強化策は早くも実った。県、甲神静大会を突破して、都市対抗本番に初名乗りを上げたのだ。大昭和だけでなく、県勢にとっても初の本大会出場だった。

 初陣の舞台は愛知産業(名古屋市)45で屈し、1回戦で姿を消した。だが、終盤に猛追し、1点差まで詰め寄ったことから、「やれると手応えを得て、チームの意気は大いに上がった」との記録がある。

 大昭和が初挑戦した47年の県予選参加は15チーム。企業チームは大昭和だけ

で、主体はクラブ勢だった。48年も15チームで争ったが、企業勢は4に増え、後に大昭和としのぎを削る日本軽金属が加わった。

 2次予選の甲神静大会は49年まで。50年からは山梨、静岡勢が競う山静大会となる。 (敬称略)

(スポーツライター。加藤訓義)

(静新平成24529日「静岡野球ノート」)

簡略沼津市商業界昭和戦後史2

簡略沼津市商業界昭和戦後史


昭和40年富士急名店街会館開店

昭和41年丸井沼津開店

昭和42年沼津上本通り商店街振興組合設立(上本通り共栄会より)

昭和42年富士急百貨店開店

昭和42年十字屋開店

昭和434月原町、沼津市と合併

昭和43年新仲見世アーケード完成

昭和44年東名高速道路開通

昭和45年ニチイ開店:協同組合沼津商連会館設立

昭和48年イシバシショッピング問題始まる

昭和49年駅前名店街アーケード完成

昭和5011月石橋プラザ反対運動

昭和5011月商店街連盟会長辞意(大橋光雄会長)

昭和519月イトーヨーカ堂進出反対(事務局:沼津仲見世商店街振興組合)

昭和53年イシバシプラザ・ヨーカドー開店

昭和613月片浜駅新設

昭和63年沼津大手町振興組合アーケード完成(第二次)

簡略沼津市商業界昭和戦後史1

簡略沼津市商業界昭和戦後史
 

昭和21年映画館建設ラッシュ《平和館(城内元龍信亭跡)・沼津松竹(本町元杉本旅館跡)・沼津映画劇場(大手町元城内呉服店跡):復興》(本通り東宝劇場・本町演劇館・本通り沼津第一東宝館:新築)

昭和21年東部商工会議所創立:岡野豪夫会頭(昭和30年現在の沼津商工会議所へ認可)

昭和22年戦後第1回歳末売り出し(主催商工会議所・後援市役所)

昭和23年観光協会再発足(昭和27年観光協会社団法人で新発足)

昭和2381日沼津夏祭り開幕

昭和23年戦後第1回中元売り出し(主催商工会議所)

昭和242月沼津商工会議所第1回役員会(議題に沼津駅北口設置・仮称片浜駅新設誓願あり)

昭和25622日沼津商工会議所:「全市連合中元大売出し実施要綱」(七夕祭り:七夕飾り・七夕行列)

昭和25625日朝鮮動乱勃発

昭和25年沼津信用組合設立(昭和26年沼津信用金庫に改組)

昭和27年本通り共同住宅建設組合設立

昭和2829年アーケード名店街完成

昭和32年浅間町商店街ビル完成

昭和323月西武百貨店沼津進出反対決議書(沼津市商店街連盟:会長杉山猪作)

昭和326月西武デパート沼津本館開店

昭和3210月沼津駅北口開設

昭和339月狩野川台風災害

昭和34年仲見世商店街組合設立

昭和35年上土町商店街センター街完成

昭和35年三信沼津支店聖マリア跡移転

昭和374月商店一斉休日チラシ発行(毎月第二・第三・第四水曜日)

昭和382月沼津・三島間路面電車(チンチン電車)廃止

昭和38年長崎屋開店

昭和3812月沼信本店ビル上本通りに移転開店

昭和39年東海道新幹線開通

昭和3910月東京オリンッピク開催


捕獲のラブカ死ぬ 沼津・深海水族館

沼津近海ラブカ捕獲

 深海水族館 生体展示、国内唯一

 古代のサメに似ていて「生きた化石」とも言われる深海サメの一種「ラブカ」が19日、駿河湾で生きたまま捕獲された。沼津市千本港町の沼津港深海水族館シーラカンス・ミュージアム(石垣幸二館長)が引き取り、公開している。生きたラブカの展示は国内で唯一という。

 捕獲されたラブカは全長17㍍ほどの成魚の雌。同市江浦の釣り船が海面を泳いでいるのを発見した。石垣館長は「海面で捕獲するケースは非常に珍しく、きれいな状態を保っている」と話した。腹が少し膨らんでいるため妊娠している可能性があり、「世界的にも水族館でラブカが出産した例はないのでは」と期待を寄せた。

 ラブカはカグラザメ目で水深千㍍ほどに生息し、深海の薄い酸素を効率的に取り込むためにえらが外に飛び出ている。

(静新平成24520日朝刊)

 

捕獲のラブカ死ぬ 沼津・深海水族館

 沼津市千本港町の沼津港深海水族館シーラカンス・ミュージアム(石垣幸二館長)で公開していた深海サメの一種「ラブカ」が21日朝、水槽の中で死んでいるのを同館スタッフが確認した。

 同市江浦の釣り船が19日、海面を泳いでいるところを捕獲し、同館が引き取った。古代のサメに似ているラブカは「生きた化石」とも呼ばれ、生体を展示していたのは国内でも同館だけだった。20日はラブカを目当てに多くの来館者が訪れたという。

 ラブカの腹には1020㌢に成長した稚魚8匹が入っていたが、いずれも死んでいた。同館の飼育員高木裕司さんは「水族館でラブカが出産した例は世界的にもないため、今回の死は残念。だが、ラブカは解明されていないことが多い生物。誕生の過程などを知る上で貴重な資料になる」と話した。

 同館はラブカと稚魚を標本として保管し、公開する予定という。

(静新平成24522日朝刊)
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