「おらが駅」愛着息づく
「請願駅」。富士市民は1988年に開業した新幹線新富士駅をこう呼ぶ。富士商工会議所発行の「地域の歩みと産業」には、政府筋に対して「猛烈な促進運動を起こした」とある。
70年、市町内会連合会が新幹線の富士停車を提起。地元選出の衆院議員斉藤滋与史氏を中心に、山梨県の自治体も加えた27市町村で期成同盟を組織した。
「自分たちが造ったとの意識が強かった」。初代新富士駅長の杉山利雄さん(79)日裾野市在住=は、ホームに入りきれない人だかりができた開業日を思い出す。当時は、宗教団体の会員が大挙して富士宮市の寺院を参詣に訪れ、新富士駅には団体客を乗せた列車が往来した。
ただ、新富士駅は県内で唯一、在来線駅と接続せず、利便性は悪かった。「ひかり」が停車しないため、静岡、三島両駅のどちらかで乗り換える市民も少なくない。
JR富士駅北口の商店主(77)は「(新富士駅の)ありがたみをあまり感じていない」。
「おらが駅」のありさまも時代とともに変遷している。
2万360件、総額29億5314万9898円ー。新富士駅と同時開業した新幹線掛川駅の記念冊子「夢から現実への諸力学」。巻末には建設へ募金を寄せた個人や企業、団体の名前がびっしり連なる。「(他の駅とは)市民の誇りが違う」。市長として設置をけん引した榛村純一さん(80)は、新幹線掛川駅の価値をこう強調する。
榛村さんは77年12月の市議会で新幹線駅構想を打ち出し、国鉄(当時)へ104回の陳情を重ねた。当初は懐疑的だった地元の雰囲気も、現実味を帯びるにつれて募金運動に代表されるうねりに変わった。市民や周辺市町の善意に応えるため、市は誰もが親しみ、文化振興の拠点になる「公園のような駅」(榛村さん)を目指した。それから26年を経た今春、東海道線側の木造駅舎は再びの市民募金により、外観を保存しての耐震化を成し遂げた。
「普通だったら『新しいビルを造れ』となる。でも、掛川は違った」と榛村さん。駅への市民の愛着が、脈々と息づくことを喜ぶ。
(静新平成26年9月27日「夢を乗せて半世紀東海道新幹線」)