2018年09月

狩野川台風60年「被災の記憶」

狩野川台風60

夜の大濁流家や人急襲

 19589月に伊豆半島で900人以上の犠牲者を出した狩野川台風襲来から26日で60年を迎える。被災者の体験談や伊豆半島の防災対策の現状、7月上旬にあった西日本豪雨の様子に迫り、防災への課題や教訓を探った。

◇被災の記憶

 「あっという間に腰の高さまで家屋が浸水し、外に出て濁流にのみ込まれた」ー。中学3年生で狩野川台風を経験した山口菊代さん(75)=伊豆の国市御門=は、60年の歳月を経てもいまだに鮮明に残る記憶を振り返る。夜、狩野川が氾濫。「大仁から函南まで流された。意識を失い、多くの遺体と一緒に小学校に並べられました」

 当時、狩野川近くの大仁町(現伊豆の国市)白山堂で伯母と暮らしていた。数カ月前に引っ越してきたばかりで、川の近くに住むことに危機意識はなかった。1958926日のあの日は朝から激しい雨が降っていたが、これまでの台風接近時と同じく「寝ていれば過ぎる」と早々に床に就いていた。

 伯母の叫び声で目を覚まし、着替えをしているうちに畳が浮いた。外に出ると一帯は川と化していた。懸命につかんで登った自宅の前の木は家屋とともに水の勢いで流され、そこではぐれた伯母は帰らぬ人に。濁流の中で橋に激突して気を失い、数㌔先で木に引っかかっていたところを救出された。意識がなく遺体とともに並べられていたが、通っていた中学校の教員が偶然そこにいて山口さんを発見し、手当てを受けて一命を取り留めた。

2018年09月24日14時31分39秒0001kk
2018年09月24日14時31分39秒0001k

 修善寺町(現伊豆市)熊坂で被災した西島萬徳さん(88)は、現在も住む場所にかつて建っていた家が濁流にのまれ、家族7人のうち4人を失った。「玄関に水が入ってくる音が聞こえて間もなく胸の辺りまで水が来た。2階に上がったが家ごと流された」。屋根に乗って流される中、流木にぶつかり、近くの橋まで上がって助かった。

 一緒に流され、函南町で助け出された妻の木久枝さん(83)は、平成最悪の犠牲者を出した7月の西日本豪雨の報道に60年前の記憶を重ねる。「浸水した被災地の映像を見るとあの恐怖が鮮明によみがえる」と目を潤ませる。

 狩野川台風後、付近の狩野川の川幅は倍に広がり、上流の対策も進んだが「何があるか分からない」と西島さんは今も危機感を持ち続ける。情報収集と早い段階での避難という教訓を、これからも体験者として伝えていくつもりだ。

 〈メモ>1958926日、後に狩野川台風と呼ばれる台風22号が伊豆半島に接近した。午後から夜にかけて豪雨となり、午後8時ごろからは狩野川上流一帯で1時間に80120㍉の雨が降って各地で山崩れが起きた。多量の土砂と流木が川に集中して各所にダムが形成され、これが決壊して波状的に大洪水が発生。午後950分ごろの修善寺橋の倒壊では、一気に流れ出した大量の水が熊坂地区や白山堂地区をはじめとする集落を襲い、壊滅的な被害を与えた。狩野川流域の現在の伊豆市、伊豆の国市、函南町で死者・行方不明者853人。伊東市や熱海市などでも犠牲者が出た。

【静新平成30922日(土)朝刊】

沼津市立第一小学校創立百五周年記念式典






2018年09月15日05時07分36秒0001

一小が創立150周年

近代的小学校都市として国内最古

 一小(杉本雅弘校長)で十二日、創立百五十周年記念式典が行われた。同校は明治元年、駿河に移封された旧幕臣の子弟の教育のため創立された「代戯館」を発祥とし、近代的な教育を始めた日本で最も古い小学校とされる。式典には来賓と共に在校生を代表して五、六年生が出席した。

 

式典を前に児童が和太鼓演奏

途絶えた沼津太鼓復活に練習を重ね

歴史「代戯館」は問もなく、「沼津兵学校附属小学校」に引き継がれ、藩士の子弟だけでなく、農家や商家の子も入学を許され、読み書きや手習いはもちろん、黒板を用いた一斉授業で算術や地理等も教えるなど、近代的な質の高い教育が行われ、小学校の先駆的存在として評価されている。

その後「沼津小学校」「集成舎」「小学沼津学校(沼津毯」などと名称を変え、明治三十年、八幡町の現在の場所に移り、今日まで百五十年間の歴史を紡いできた。

沼津太鼓 式典に先立ち、同校の和太鼓クラブによる演奏が行われた。

同クラブは平成二十八年四月に発足。百五十周年での演奏を見据えて練習に励んできた。指導したのは、沼津太鼓育成保存会の元メンバーで、現在は「音三昧」主宰の加藤武夫さん。

今回の演奏では、加藤さんが作曲した創立百五十周年記念曲「維新伝心」と、作曲家黛敏郎氏作曲の沼津太鼓「富士」が演奏された=写真。

沼津太鼓は、昭和四十五年に発足した沼津太鼓育成保存会をルーツとする。四十七年頃、黛氏にオリジナル曲の作曲を依頼。完成したのが「富士」「漣波(さざなみ)」「松」「祭」の四曲から成る組曲。沼津御用邸記念公園の旧御文庫を練習場として約二十年間、一小や二小の児童らも参加し、沼津夏まつりをはじめ各地域で演奏を続けたが、その後、徐々に参加者が減り、十五年程前、活動に幕を下ろした。

同校では、創立百五十周年の記念事業として、これを復活しようと二年前に取り組みを開始。初めて太鼓を叩く児童達に加藤さんは基本から教え、限られた時間の中で練習を重ね、組曲のうち「富士」の復活となった。児童達の堂々とした姿と力強い演奏に、会場からは大きな拍手が送られた。

式典 杉本校長は式辞で、同校の沿革を紹介しながら、歴史に育まれた気概が現在まで受け継がれるとともに、地域に支えられ、同校の運動会と地域の校区祭が一体となった「はばたき祭」は今年度で十七回目の開催であることを説朋。

また、校歌の一節「効(かい)ある人とならんこそ」に触れ、これは同校の教百目標としても掲げられ、児童達の胸に留まる言葉

となっていることなどを話した。

来賓の渡辺周衆議院議員は、祝辞と共に、自身と二人の子どもが同校の卒業生であることを話し、児童達に「日本で最初の学校で学んだ、というプライドを持ってほしい」と語りかけた。

また、勝又孝畦衆議院議員は、日本の経済が発展したのは日本人の勤勉性と教育水準の高さにあるとし、「(六年生の)皆さんは平成最後の卒業生(となる)。新しい時代を切り開いてください」と述べた。

頼重秀一市長は、お祝いの言葉に続き、同校が古くから人材育成に貢献してきたことに感謝。「中核の学校として、沼津を元気に導いていただきたい」と語り、渡部一二実市議会議長も、お祝いを述べると、同校の歴史に触れながら「効ある人づくりを進めてほしい」とした。

このほか、市議、教育委員会関係者、近隣の学校関係者や地域で尽力した人など多くの来賓が招かれ、紹介された。

続いて贈呈品の披露。創立百五十周年に寄せて、同校の発祥に縁のある徳川家宗家十八代当主・徳川恒孝(つねなり)氏直筆の書が贈呈されたことが紹介され、また直筆の祝辞が代読された。

この後、同校卒業の中学生代表、児童代表の言葉に続き、最後に児童と教職員が校歌と応援歌を歌った。

「第一小学校応援歌」は昭和三年に作られたもので、作曲者は不明。当時の教職員ではないかといい、近年は歌われていなかったが、式典に先立ち復活させた。

在校児童代表として出席した五、六年生は、一時間半の式典の間、姿勢を崩すことなく真剣な態度で臨んでいた。

杉本校長は記念誌の中で、「受け継がれてきた伝統の証として、第一小学校の子ども達の姿を皆様にお見せしたい」としていたが、この日の児童達は、これに応えた。

 

記念事業で「はばたきの像」を修復

50年たち傷み目立つようになり

この百五十周年記念事業の一環として、中庭に建つ「はばたきの像」の修復を沼津市出身の彫刻家、石渡三夫さん(裾野市)に依頼。修復が完了した像の除幕式が十二日、式典前に開かれた。

「はばたきの像」は、同校出身の彫刻家、和田金剛氏が五十年前、開校百周年を記念して制作したもので、台座を含めて約四㍍になるコンクリート製の像。少年少女の夢が大空に舞い上がるイメージで、子どもを乗せた大きなワシが羽ばたく姿を表現している。

像は長年、風雨にさらされて黒色に変色。風化してワシのくちばしや羽の先端が欠けるなど損傷が進んでいたことから、百五十周年を記念し、PTAの協力により修復することになり、和田氏の弟子だった石渡さんに依頼した。

石渡さんは西浦中出身で、高校卒業後、二十歳の時に和田氏に弟子入し、以来、彫刻家の道を歩んでおり、作品の中には、さんさん通り沿いの歩道に置かれた大小のオブジェなどがある。

石渡さんは「弟子入りした当時、この像を写真で見たことがあったが、黒く汚れて風化してしまった。和田先生のイメージを、より補強するような修復を行い、色は青銅色にした。先生の像を修復できてうれしい。亡くなった先生も喜んでいると思う」と話す。

除幕式では、杉本校長が「はばたきの像」の由来や修復に至った経緯を話し、「五十年間、一小の子ども達の夢を乗せて羽ばたいてきた。石渡先生が、ただ直すだけでなく、バージョンアップさせてくれた。新・はばたきの像は、皆が大人になっても元気に羽ばたいていると思います」と話し、児童やPTA役員がロープを引いて除幕。

石渡さんは『お父さん、お母さんの思いを込め、皆が羽ばたいていけるよう、像をきれいにしました」とあいさつし、計画委員の児童代表が「これからも『効ある人』を目指し、気づき、考え、行動できる人になるよう頑張ります」と感謝の言葉を述べ、引き続き記念撮影などが行われた。

【沼朝平成30915()号】


スルガ銀の組織的不正認定

2018年09月08日05時40分28秒0001s

不正融資調査 第三者委報告

「スルガ手法」業界まん延か

不動産バブル崩壊への道

 シェアハウスへの不正融資にのめり込んだスルガ銀行を、外部弁護士の第三者委員会が断罪した。不動産会社と裏でつながり、高額物件を会社員らに買わせる手法は「スルガスキーム」と呼ばれ、業界にまん延しているとのうわさもくすぶる。超低金利で膨らんだ不動産投資バブルは崩壊への道をたどり始めた。

 不適切融資の主舞台となった横浜東口支店。元専務執行役員が稟議(りんぎ)書に目を通す毎週水曜日は、販売協力会社が出入りし、深夜までごった返した。

 番頭急逝

 審査書類の改ざんに手を染めた協力会社の社員は「びくびくして待つが、融資を断られることはなかった」と明かす。審査部門は元専務執行役員が率いる営業部門にどう喝され、ほぼ100%承認した。

 スルガ銀は住宅ローンの竸争激化を背景に2000年代後半、ワンルームマンション投資への融資を拡大。恋愛感情を利用したデート商法による詐欺が横行してブームが下火になると、アパートやシェアハウスへと軸足を移した。協力会社には「デート商法で問題になった顔ぶれのダミー会社が紛れ込んでいた」(第三者委関係者)が、営業部門は黙認していた。

 営業を重視し法令順守を軽視する風土を作り上げたのは、岡野光喜会長の実弟で番頭役だった喜之助副社長と、第三者委の報告書は認定した。その喜乏助氏も15年には見かねてシェアハウス関連取引を禁じたが、元専務執行役員らは無視。喜之助氏が翌年急逝するとたがが外れ、暴走に拍車が掛かった。

 「卒業」

 1985年にトップを世襲した光喜氏は、個人向け融資にかじを切り「地銀の風雲児」と呼ばれ、社内では「聖域化」した。近年は過去最高益を更新し続けたが、取締役会は事業計画を営業部門に任せきりだった。第三者委は、不正融資の根底には「意図的と評価されてもやむを得ない放任や許容があった」と指摘した。

 「コンシェルジュ」「夢先案内人」。スルガ銀が掲げた経営理念は、任期が異例の3年に及んだ金融庁の森信親前長官が唱えた「顧客本位の経営」を体現するかのようだった。だが、営業部門は「崇高な目標を掲げられても飯は食えない」と冷ややかだった。執行役員から取締役に昇格することは第一線から退く意も込めて「卒業」と呼ばれ、金融庁幹部は「企業統治が軽んじられていた証左だ」と切って捨てた。

 サブプライム

 「もう暴かないでくれ」。問題を追及する弁護士には不動産業界から圧力とも受け取れる声が強まり始めている。日銀の統計では、国内銀行が今年46月期に個人の貸家業向けに新規融資した額は5603億円と、ピークだった1679月期から半減した。今回の件を受けて融資引き締めの動きが広がり、不動産業界は青息吐息だ。

 スルガ銀は過剰融資のつけが回り、今年6月末の不良債権額が前年同期の46倍の1356億円に膨らんだ。8月末には、投資用アパート企画・管理の「TATERU(タテル)」でも類似の審査書類改ざんが発覚した。

 問題の闇は深いとみるインターネット上では、10年前のリーマン・ショックの引き金となった不良債権になぞらえ「日本版サブプライム」とささやかれ、次の火種を探す動きも出始めている。

【静新平成3098()朝刊:経済】

2018年09月08日09時34分11秒0001

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

paipudes

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ