狩野川台風60年
夜の大濁流家や人急襲
1958年9月に伊豆半島で900人以上の犠牲者を出した狩野川台風襲来から26日で60年を迎える。被災者の体験談や伊豆半島の防災対策の現状、7月上旬にあった西日本豪雨の様子に迫り、防災への課題や教訓を探った。
◇被災の記憶
「あっという間に腰の高さまで家屋が浸水し、外に出て濁流にのみ込まれた」ー。中学3年生で狩野川台風を経験した山口菊代さん(75)=伊豆の国市御門=は、60年の歳月を経てもいまだに鮮明に残る記憶を振り返る。夜、狩野川が氾濫。「大仁から函南まで流された。意識を失い、多くの遺体と一緒に小学校に並べられました」
当時、狩野川近くの大仁町(現伊豆の国市)白山堂で伯母と暮らしていた。数カ月前に引っ越してきたばかりで、川の近くに住むことに危機意識はなかった。1958年9月26日のあの日は朝から激しい雨が降っていたが、これまでの台風接近時と同じく「寝ていれば過ぎる」と早々に床に就いていた。
伯母の叫び声で目を覚まし、着替えをしているうちに畳が浮いた。外に出ると一帯は川と化していた。懸命につかんで登った自宅の前の木は家屋とともに水の勢いで流され、そこではぐれた伯母は帰らぬ人に。濁流の中で橋に激突して気を失い、数㌔先で木に引っかかっていたところを救出された。意識がなく遺体とともに並べられていたが、通っていた中学校の教員が偶然そこにいて山口さんを発見し、手当てを受けて一命を取り留めた。
修善寺町(現伊豆市)熊坂で被災した西島萬徳さん(88)は、現在も住む場所にかつて建っていた家が濁流にのまれ、家族7人のうち4人を失った。「玄関に水が入ってくる音が聞こえて間もなく胸の辺りまで水が来た。2階に上がったが家ごと流された」。屋根に乗って流される中、流木にぶつかり、近くの橋まで上がって助かった。
一緒に流され、函南町で助け出された妻の木久枝さん(83)は、平成最悪の犠牲者を出した7月の西日本豪雨の報道に60年前の記憶を重ねる。「浸水した被災地の映像を見るとあの恐怖が鮮明によみがえる」と目を潤ませる。
狩野川台風後、付近の狩野川の川幅は倍に広がり、上流の対策も進んだが「何があるか分からない」と西島さんは今も危機感を持ち続ける。情報収集と早い段階での避難という教訓を、これからも体験者として伝えていくつもりだ。
〈メモ>1958年9月26日、後に狩野川台風と呼ばれる台風22号が伊豆半島に接近した。午後から夜にかけて豪雨となり、午後8時ごろからは狩野川上流一帯で1時間に80~120㍉の雨が降って各地で山崩れが起きた。多量の土砂と流木が川に集中して各所にダムが形成され、これが決壊して波状的に大洪水が発生。午後9時50分ごろの修善寺橋の倒壊では、一気に流れ出した大量の水が熊坂地区や白山堂地区をはじめとする集落を襲い、壊滅的な被害を与えた。狩野川流域の現在の伊豆市、伊豆の国市、函南町で死者・行方不明者853人。伊東市や熱海市などでも犠牲者が出た。
【静新平成30年9月22日(土)朝刊】