昭和

牛臥御幸橋架け替え完了

牛臥御幸橋架け替え完了

80余年ぶり忙生まれ変わり18日に供用を開始

 牛臥の塚田川河口に架かるみゆき橋。その架け替え工事が終わり、市は今月18日の供用を予定している。

 旧橋は石造りで、1935(昭和10)11月に完成。80年余が経過した昨年2月、解体に着手し、終了した同年10月、市の事業「令和元年度御幸橋橋梁上部工事」として着工。予定より早く今月3日に終了した。

 新橋は、幅55㍍、全長238㍍。幅は旧橋と同じだが、長さは若干延びた。事業費は国の補助金を含め総額約23200万円。

 国道414号の牛臥入り口から牛臥海岸、御幸橋、我入道地域を経て市中心部とつながる市道で、朝夕の通勤時間帯には多くの車が利用している。

 ただ、牛臥入り口から同橋、かびらばす保育園付近まで約1㌔の間、道幅が狭くセンターラインがないので、スピードを出し過ぎず、安全運転が求められている。

 供用開始は18日午前9時。 東海バスが運行していた路線「柿原循環」は工事のため休止となったが、再開について東海バス沼津営業所では、「現在、再開へ前向きに検討中」だとしている。

【沼朝2021(令和3)311日(木曜目)】


2021年03月11日04時32分16秒0005k  DSCN6610
   旧みゆきばし(昭和10年築)↑

沼津の商業史を後世に

20180429nshougyousith from 徹 長谷川

2018年04月30日17時09分55秒0001k

沼津の商業史を後世に

 「ふるさと通信」に年譜掲載 長谷川徹さん(72)

 戦後昭和の沼津の商業史を年譜にまとめ、懐かしの写真をちりばめながら、沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)の会報「沼津ふるさと通信」に2回に分けて発表した。

 戦後昭和部分は「昭和208月中島飛行機三島製作所の木瀬川分工場、富士産業株式会社と改称」から始まり、「昭和6310月桃中軒会館『エイプルコア』に名称変更」まで詳細を極める。

 商店街の歴史には元々関心があったが、直接のきっかけは20131月の西武沼津店閉店。多くの沼津の人が悲しむ姿を目の当たりにした。「沼津の昭和の商業はここで完全に終わった。歴史をまとめて後世に伝えなければ、と思った」と説明する。

 その西武沼津店。開店は19576月だが、直前の進出反対運動については地元紙「沼津朝日」の当時の記事を引用する形で多くのスペースを割いて記述した。「イトーヨーカドー進出の時も反対運動が起きたが、誰がどう反対したかを、個人名まで含めて書き残さないと、次の世代には分からなくなってしまう」と話す。

 両親が始めた化粧品店を継ぎ、地元の沼津上本通り商店街振興組合理事長も務めた。周囲の商店街は、江戸時代から続く商店街▽東部随一の商店街ーなどの特徴があるが、上本通り商店街は比較的地味。そこで上本通り商店街の特徴として「日本で最初の洋式本格的小学校発祥の地」「映画館でにぎわった商店街」と位置づけ、小学校出身者を顕彰する講演会や展示会、沼津ちなみの映画の上映会も開いた。日本で最初の洋式小学校とは、幕臣が1868(明治元)912日に開校させた沼津市立第一小学校の前身である「代戯館」のことだ。

 沼津の商業は衰退が著しい。現在の商店街については「もう商店街とは言えない。単なる飲食店街」と厳しい見方。また沼津駅南口から映画館が姿を消したことには「映画館がなくなっても、例えばスーパー銭湯のような現代の娯楽健康施設が代わりにできてくれれば良かったのだが」と嘆く。

 さらに沼津市郊外には来年秋に「ららぽーと」がオープン予定で現在工事中。「一商人としては絶対反対。落ち込んだ商店街の息を完全に止める施設となる」とみている。

【石川宏】

【毎日新聞静岡平成30429()「ひとしずおか」】

昭和27年8月1日発行「沼津の里」発行人金子一六

昭和27年8月1日発行「沼津の里」表紙

沼津太鼓、黛敏郎氏オリジナル曲作曲「富士」「漣波」「松」「祭」発表会

沼津太鼓、黛敏郎氏オリジナル曲作曲「富士」「漣波」「松」「祭」発表会

「 黛敏郎氏にオリジナル曲作曲依頼・沼津太鼓育成保存会

・・・・・・その黛氏に沼津太鼓のオリジナル曲作曲を依頼したのは四十七年ごろ。黛氏は快く引き受け、曲に沼津の四季を織り込むために春夏秋冬、四回にわたり来沼。名所旧跡を回って「富士」「漣波(さざなみ)」「松」「祭」の四曲からなる組曲を完成させた。

 大木さんは「作曲は二年がかりで、何度か会いに行って催促したこともあった。三曲程作ってほしいと依頼したところ、『祭があって太鼓がある』と言って、四曲を作ってくれた。太鼓の音というのは単調だが、メロディーになるように音を構成し、楽譜も書いてくれた。中でも『富士』は素晴らしい曲。『富士』を中心に太鼓曲でストーリーが描かれていて、よくやってくれたと思う」と話す。

 この曲は、太鼓九台と鉦、拍子木、ひょうたんなどの楽器を使う難しい曲だったが、練習を重ねて音を完成させ、黛氏を沼津に招き、一小、二小の五、六年生にも参加してもらい発表会を開き、黛氏の感想も聴いた。

 演奏を聴いた当時の井手敏彦市長(故人)に、「練習場に困っている。なんとかならないか」と相談したところ、「素晴らしい取り組み」だとして、「御用邸の御文庫で練習したらどうか」と提案を受け、御文庫の建物を練習場所として借りられることとなり、御用邸での練習を開始した。・・・・・・・・

(沼朝平成2911日元旦号より)」

発表会記念集合写真 昭和52年11月4日
2013年10月12日11時49分52秒0001
 

 

「写真アルバム沼津・三島の昭和」発行

「写真アルバム沼津・三島の昭和」
昭和28年11月29日初版発行
発行所 株式会社いき出版社 
2016年12月08日10時43分22秒0001k
 
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