現論 保阪正康
ほさか・まさやす 1939年札幌市生まれ。同志社大卒。「昭和史を語り継ぐ会」を主宰。昭和史の実証的研究を独自の視点で続ける。2004年に菊池寛賞。著書に「昭和陸軍の研究(上下)」「昭和天皇実録その表と裏」「ナショナリズムの昭和」(和辻哲郎文化賞)など。
権力の問答無用常態化
日本学術会議の会員候補6人が任命拒否にあったという「事件」は、その後国会でも論じられているが、政府答弁はその理由をいまだ明らかにしていない。なぜだろうか。答えは簡単ではないか。つまり政府にとって目障りだからである。反政府的な声明の呼び掛け人であったり、その傾向が強かったりするからということであろう。
こうした処置(権力を使った制裁ということになる)について、私は本質を見抜かなければならないと思う。拒否を取り消せとか、学術会議の体質を変えろとか、極めて近視眼的な論議があるが、表面を糊塗(こと)するにすぎない。もっと歴史的な視点が必要ではないか。
私は既にこれは新しい形のパージ(追放)ではないかといった見方を示してきたが、さらに踏み込むと、もっと重要な意味があるように思う。
監獄か面従腹背か
昭和ファシズムは、軍事があらゆる思想、哲学、制度を解体することで極めて分かりやすい形の国家体制をつくった。それは結果的に戦争に即応する便利な体制だつたのである。この体制の基本形は「正方形」である。一辺が情報管理(言論・表現の自由制限)、「辺が国定教科書の軍事化(児童生徒の想像力抑圧)、一辺が暴力(テロや官憲による拷問など)、最後の一辺が弾圧立法の拡大解釈(当局の恣意(しい)的判断)という枠組みに囲われたら、多くの人は黙ってしまう、ファシズムの完成である。
それでも抵抗する人はいる。大体が共同体から放逐され、生活手段を失う。昭和ファシズムに向き合った時、結局は監獄生活か、面従腹背か、亡命か、自殺かといった道しかなかった。昭和史の検証が必要だというのは、こうした事実を教訓化できるか否かが問われているからだ。
この正方形理論で見ていくならば、現代は昭和型のファシズムではありえない。ファシズムの怖さは国家権力が暴力化することである。むろん肉体的な暴力だけではなく、社会的、心理的な意味での暴力も含めてのことである。不安、おびえ、そして恐怖の感情が培養され、それゆえに自らを時流に重ねて安堵(あんど)するのである。昭和ファシズムに抵抗した人がほとんどいなかったことは、このようなサイクルに入り込んでいたからだ。
任命拒否の意味
さてこうした構図を見たうえで、今回の任命拒否はどのような意昧を持つのか。私は、政府は6人に対して極めて無礼だと思う。拒否の理由を説明しないことは、人間としての尊厳を傷つけているという一事に気が付いていない。 私が昭和ファシズムより悪質だと指摘するのは、このような「問答無用、切り捨て御免」が、権力の側から常態化しているからだ。社会的批判がもつと高まっていい。「答弁を控える」という菅義偉首相の雷は、何度も繰り返されているのだが、よく考えるとこの言は犯罪性を帯びているのでは、とすら雷いたくなる。少なくとも社会的常識から逸脱している。
現在が昭和ファシズムと同じ構図だなどというつもりはない。正方形の各辺が露骨になってきて、私たちをこの枠組みの中に押し込めようとしているわけではない。だが6人の任命拒否は、目に見えない形で自由社会に反する空気が生まれていることを示す。一見、民主主義社会の形が機能しているかに見えて機能不全を起こしている。ファシズムとは言わないけれども、新しい形の管理社会が生まれつつあるのかもしれない。
この管理社会は今、国民各層に広がつているアパシーシンドローム(無気力症候群)や命令受動型、異端者排除の人々によつて支えられているように、私には思える。
こうした現象が、新型コロナウイルス禍とどう関係があるのかは分からない。ただ神経質と書われるかもしれないが、コロナ禍が生み出す社会的変調が従来の価値観を変えることは間違いない。任命拒否が示している問題は、コロナ禍が遠因になっていると後年分析されるかもしれない。
昭和ファシズムは正方形の囲みの中に、国民を閉じ込めた。今私たちは新たな正方形の囲いの中に追い込まれようとしているのではないか。その一辺には政府の無責任答弁、もう一辺には問題から逃げる国民意識があると言ったら言い過ぎだろうか。
(ノンフィクション作家)
【静新令和2年12月13日朝刊「現論」】